2009年11月19日 (木)

またひとつ地域の「良い店」がなくなる。

歩いて20分くらいのところに川魚料理の店がある。
初めて訪れたのは30年近くも前のこと。
家に来てくれた母を案内した。
聞いていた評判から、母が気に入るかもしれない、と期待した。
その通り、こじんまりした静かな店内でいただく鰻の蒲焼や川魚のアライを母はたいそう喜んだ。
母が「おいしい!」と感じ食が進む料理は少ない。

蒲焼は、美しい焼き色から香ばしさが立ちのぼり、口に含むとみじんも泥臭さがない。
鮒や鯉のアライはしっかり氷でしめてあるが、雑味や水っぽさがない。
添えてあるまったりとした酢味噌の酸味、甘み加減も文句なし。
それでいて価格は随分抑えてある。

このあと母は、お友だちを誘い訪れたよう。
母にとってこの店と味は、電車を乗り継ぎ2時間以上もかけて来る値打ちがあった。
もちろん私の家に来てくれた時の楽しみのひとつにもなっていた。
いつもおいしそうに食べ、必ずお店の人に心づけを渡していた。

4年前に母が亡くなってからも、年に1,2回は訪れた大切な店だったのに、閉店が決まってしまった。
不況の波にあおられたのか、店主(料理人)の高齢化の為か・・・?

地域でひとつひとつ消えていくのは、心寄せた店。
新しくできるのはたいてい、便利だけど(24時間営業、早い、安いといった)心を寄せることなどなさそうな店。
寂しい・・・。

「20日で閉店」を知ったのが遅かったので、食事に行く時間が取れそうもなく蒲焼の持ち帰りを頼んだ。当日に1本いただき、2本は冷凍して日をおいて惜しみつついただく。
蒲焼

店を出るとき、いつも通り店主自ら「ありがとうございました」と挨拶された。
私の方も、母のことも含めて心から「ありがとうございました」を返した。

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2009年11月17日 (火)

めざすところは「やさしい家」

今より4歳若かっただけなのに、家を建てるときにバリアフリーの考えが全くなかった。
狭い敷地なので、子どもたちの部屋をいかに確保するか、そればかりとらわれていた。
ところがアッという間に2人の子どもたちが独立し、家にいない。
また、夫も私も「老い」への自覚はまだ乏しいものの、確実にそれがやってくることを意識し始めている。
お誘いすれば、喜んで我が家まで来てくださる夫の両親も足腰が弱っている。
今は少し疎遠となっているが、かつては車椅子の方たちとも交流があった。
それなのに、なぜバリアフリーの発想がなかったのか?大いに悔やまれる。

自宅でパソコンレッスンをし始めているが、生徒さんに車椅子の方がおられる。
その方のおうちまで出張しているものの、外出する機会が少ない方だけにできれば来ていただきたい。

その為の準備をすべく、建てたときにお世話になった不動産屋に、玄関への階段(高さ約15cmで2段)のスロープ工事の見積りをお願いした。
社長自ら職人を連れて来てくださったものの、曰く「これはもったいない。工事するのは止めましょう。何とか別の方法を考えましょう。」

玄関、階段の石タイルにはこだわったといういきさつもあり愛着がある。改めて眺めてみてもやはり美しい。
それを壊してしまうことはちょっぴり寂しい・・・。その心を社長に見透かされたのか?

結局、何も対策をとらないまま、まずは生徒さんと介護をされる親御さんに家を見ていただく。
すると意外にも「これなら大丈夫」とのこと。

車椅子から降りられた生徒さんは親御さんに身体をしっかり支えてもらいながら、ゆっくりゆっくり進まれる。
この方とは2年半にわたる交流がありながら、(車)椅子に座る姿以外見たことがない。
力が感じられないたよりなげな足運びでありながら、「人が歩く姿は、何ていいものなのだろう~」としばし見とれた・・・。
そして、ハッと気づき私も手を貸した。

何とか玄関まで上がられると、あとは何も問題なし。
用意しておいたのはキャスター付の椅子。
段差のないフロアー、引き戸(これが大事らしい)になっているトイレ。
「弱者にやさしい家づくり」の意識は私にはなかったけれど、ありがたいことに設計者には多少なりともあったのだろう。
生徒さんは、とても居心地良さそうにされていた。

我が家がこの方を受け入れることができる環境であったことがとてもうれしい。
ポーチ階段の見積りはしてもらいぞこなったものの、やはり考えるべき方向はバリアフリー。
工事となればデザイン面ばかりではなく費用のこともあり悩ましいけれど、できるところから少しずつ手を加えて「やさしい家」にしていきたいな。

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2009年11月12日 (木)

『母なる証明』

昨日、ポン・ジュノ監督 『母なる証明』を観た。
それほど多くない入場者のほとんどが女性(私も含めて中高年ばかり)。
これは女性割引のあるレディスデーだからというだけではなく、「殺人事件の容疑者として逮捕された息子(演じるのはウォンビン)を助けるために、母親が懸命に努力する」というあらすじが女性の気持ちに響くためか・・・?
母なる証明  もしそうであれば観賞者たちには裏切られた思いがあったかもしれない。
あらすじからイメージされるような「落涙をこらえ切れない感動作」ではなく、ミステリ仕立てで人の心のひだ深く分け入り暗く重い部分を描き出す作品だった。

冒頭、枯れた草原に一人きりでいるいわゆる「おばさん」風の中年女性(「韓国の母」といわれる大女優キム・ヘジャ)。
彼女が(カメラに目を据え)音楽に合わせ踊り出す。
「なに??? 何が始まる?」
と狐につままれたような感覚が消えない内に、続いて(気弱な私には)正視しづらい映像。
屋内で裁断機を使い乾燥薬草を切り続けている先の女性、道路をはさんだ向かい側を気にして、視線の先は常にそこにある。
「ガシャ」という刃が薬草を切り落とす乾いた音、おろそかになっている手元、少しずつ短くなっていく薬草に彼女は二度三度と刃を下ろしていく・・・。

緊迫した場面でも想像上の怪物がベースなので言わば気楽に観ることのできた前作『グエムル-漢江の怪物』(これでこの監督のファンになった)とは、のっけから趣きが違う。
「母の愛」をテーマにしながら、善男善女は描かれないし美男美女も登場しない。(ウォンビンは美形だけど「かっこいい」役ではない)描写はリアリズム。

殺される女子高校生。逮捕される知恵遅れで記憶にも障がいがある青年。息子の為なら常軌を逸する行動も厭わない母。
そこにからむすべての登場人物は、「端役」など誰もいないと感じられるほど、物語において重要な個性を放ち、またそれにふさわしい者が演じる。
冒頭の枯野を始め、画像に上げた村の墓地など、風景も印象に残る。

サスペンスでありストーリーを書くことははばかれるが、後半の展開は意表をつかれるし、それが冒頭の「なに???」のシーンにもつながっていく・・・。
この作品のもつ凄みは、むしろ女性より男性が引き込まれるのかもしれない。
とはいえ、私はもう今からポン・ジュノ監督の次の作品を楽しみに待っている。

*公式サイトはこちら

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2009年11月 5日 (木)

抹茶茶碗に盛り付ける楽しみ

皆さま、お久しぶりです。
相変わらずパソコン三昧の日常ながら、振り回されていたパソコンを振り回す方へと転換を図りつつあります。
おいおいブログでも具体的なことに触れていくかもしれません。

さて、近ごろの大きな楽しみのひとつは夕餉のしたく。
ぜいたくな素材は使えないし、たいしたメニューはできませんが、最近手に入れた器のおかげで料理が映えるのです!

9月始め、夫の運転する車で奈良方面に向かっていたとき道端に「滝谷不動 陶器まつり」の看板が目に留まった。(その日が初日)
急きょ行き先変更、私は陶器まつりが大好き。

会場は高台の駐車場、10数軒の店にそれぞれ並べられた器も売り手も個性いろいろ。
ぐるりと回ってみて強烈に惹きつけられたのが、抹茶茶碗のみを扱うお店。
ちょっとクセ有りげな店主による、焼き物の種類や作家名、形状のいわれなどのうんちくもなかなかおもしろい。
茶道は20歳前後に数年間学んだものの、お粗末ながら抹茶のおいしさ以外の記憶がない。
抹茶茶碗にさまざまな形状があることも今更ながら教えられた。(すっかり忘れているのかも)
どれもこれも欲しくなりさんざん迷った挙句、「馬上杯」という高台の高い形状のものを焼きの種類違いでひとつずつ3種求めた。
もとよりお抹茶に使うつもりはない。その日の夕食に汁物を入れるとこれが何とも素敵!

何とその後も1週間の会期中、いてもたってもおられず仕事の合間に2度も出かけてしまった。車の運転はできないので電車を乗り継ぎ汗をタラタラ流しながら山道を登った。
結局、3回で手に入れた抹茶茶碗は10数点。

最近『魯山人でもてなす』という本を読んだけれど、ここは手の届かない世界。
でもこの抹茶茶碗なら私でも買えるし、盛付ける料理のイメージも次々湧いてくる。
で、どうでしょう?
おいしそうに見えますでしょうか?
雑煮
ちょっと早いけれどお雑煮
これが「馬上杯」なのに、撮り方がヘタで高台が見えていない・・・

さつま芋とひじきのご飯
ひじき、さつまいもご飯(画像を撮り忘れたけどこの器はおそばが映える)

フルーツ
伊賀焼の夏用抹茶茶碗らしいけど、フルーツにもぴったり

栗ご飯 
これは清水焼の抹茶茶碗によそった栗ご飯

かぶら蒸し
こんな形の抹茶茶碗もあるらしい。かぶら蒸しを作ってみた

白和え
これは菊菜と柿の白和え
そうそう、これも「馬上杯」

カフェオーレ
近頃はカフェオーレもこの抹茶茶碗ばかり

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2009年2月22日 (日)

しばらくお休み

どうも目がいけません。
からだもいけません。
原因ははっきりしています。
パソコンのやり過ぎ。
仕事でパソコン、仕事の為の学習でパソコン、プライベートでパソコン・・・。

高年で始めた新しい仕事、同僚にも新旧交代があり気がつけば2年で、はや古株。
実力が伴わない「古株」も、さすがに新人たちに難易度の高いソフトのインストラクションを押し付けるわけにいかない。
そんなこんなで、2年経っても学習時間は増えるばかり。
といっても、膨大な時間を費やさざるを得ない原因は(加齢による?)理解度が低い為、ということは重々自覚。
自分には無理、と潔く撤退する選択もあるだろうが、やはり「石の上にも3年」はねばりたい。

毎日のパソコン操作時間が、既に限界と思われる時間を越えている現状。

仕事は離せない。
仕事の為の学習時間は短縮できない。
ならば、プライベートでのパソコン利用をあきらめるしかない・・・。

「せめて仕事関係以外のパソコン操作をしない」との線引きは遅すぎるくらいだったかも?
ブログと向かい合う時間は私の大切な日常のひとつだけど、これもしばらくは手離すことに。
といっても、目の状態や生活リズムが、多少なりとも改善されてきたならまた「書きたい虫」がうずいてくるに違いないけれど。

マイペースの気ままブログにお越しくださっている皆さま。
いつもありがとうございます。
しばらくはエントリできそうもありません。

定期的に読ませていただいているブログは、これからも時々はおじゃましますので、またお目にかかりましょう。

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2009年2月15日 (日)

河内長野シティマラソン

久しぶりに夫のお供でマラソン会場へ。
地方のローカルマラソンながら、会場の中学校には人があふれている。
初夏のような陽気もあってか、リラックスしたようすの参加者が多い。
「ファミリーの部」もあるのだろう、ゼッケンを着けた子どもたちが明るい笑顔で走り回る。
会場周辺ではウォーミングアップに余念のない人たちがいっぱい。

それにしても若者が走る姿は何て軽やかなのだろう。
くったくのない笑みを見せているその顔には、たるみひとつない。
内面からも外面からもほとばしる溌溂さがまぶしい。
年を重ねて得るものは大きいけれど、失うものも確かに大きい・・・。
(といっても年配の方たちの走りも「いぶし銀」のような魅力、あります!)

スタート時間が近づいて、みなスタート地点へと移動。
2000人ほどの参加者があったらしいが、老いも若きも、男も女も、ぞろぞろとつながる列はとても長い。視覚障害者の方もおられる。
マラソン1

マラソン2
私は走らなかったのだから、達成感も筋肉を使った気持ち良さもないけれど、マラソン大会の帰りはいつも気持ちが晴れやか。
人がいっぱい集まるショッピングセンターや娯楽場は大嫌いで、できるだけ避けているのにマラソン大会の人ごみは気にならない。
自然豊かなところで開催されることが多いからというより、おそらく「走る為」に集まる人たちの表情がいいからだろう。
ギラギラしたものを感じさせる市民ランナーはほとんどいない。

日がなパソコンに向かう1日、万歩計は3千台を示すこともあるが、今日は1万を越えている。
見学だけのマラソンは案外、身体の健康にも良かったみたい。

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2009年2月12日 (木)

『だいじょうぶだよ、ゾウさん』

『だいじょうぶだよ、ゾウさん』は「死」に向き合った絵本。

年老いたゾウとおさないネズミは仲良し。助け合って暮らしています。
ますます老いたゾウは、つり橋を渡って深い谷の向こうにある「ゾウの国」に行く日が近づいています。
ところが谷にかけられたつり橋は壊れていて、ゾウは渡ることができません。
ゾウが橋を渡ると2度と戻ってこないことを恐れていたネズミでしたが、やがて橋をしっかりと直してやりました。

だいじょうぶだよ、ゾウさん *本文より少し抜粋*
ゾウは、こころをきめると、せまいつりばしをわたりはじめました。
ネズミはおおきな声でいいました。
「こわがらないで。もう、がんじょうになってるから!」
ゾウはふりむいてこたえました。
「こわくないよ。だいじょうぶ、安心してわたるさ!」
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かつて幼かった頃(精神が、ですね)「死にたい」と幾度か考えたことがあった。
また一方では、いつの日か必ず訪れる「死」が怖くて怖くてたまらなかった。
あげく、「『死にたい』と感じたそのときに死んでしまえば、恐怖から逃れられる」と究極の結論に至ったことも・・・。

死んでしまわなくて本当に良かった!
あの頃は「生きる」ということがちっともわかってなかったし、もちろん「死」もわかっていなかった。
その後はせいいっぱい生きてきていると思うけど、いつの間にか「死」というものにも向き合おうとし始めている。
この絵本は、そっとやさしくその手助けをしてくれる。

今でもやっぱり「死」はこわい。
でもその時が来たら、ゾウさんのように「こわくないよ。だいじょうぶ、安心してわたるさ!」と言える自分でありたい。
そう言える自分であるための生き方をしたい。

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2009年2月 8日 (日)

『懺悔』を観る

「ペレストロイカの象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」と肩書きされた映画が大阪十三「第七藝術劇場」で上映されている。
グルジアのテンギズ・アブラゼ監督による『懺悔』。
1984年に製作され86年にグルジアで公開、その翌年にモスクワで公開。
日本での上映はなかった。
1987年カンヌ国際映画祭審査員特別大賞を受賞している。

かつて市長として権力を振るっていた男ヴァルラムが死に埋葬されるが、その遺体が3度までも掘り起こされるという事件が起きる。
犯人はケテヴァンという女性。彼女の両親は、かつてヴァルラムにより粛清、殺害されていた。
法廷で過去を振り返る形で、「独裁者」(スターリンでもありヒトラーでもあるような・・・)を戯画化したようなヴァルラムとその取り巻きによる無差別な粛清が明らかにされていく。

才能ある独裁者ヴァルラム、息子アベルは父が行った弾圧を「国と時代」の為と受け入れている、事実を知った孫のトルニケはそんな父が許せない・・・。

詩的、幻想的に描きながら真実を照らしていく手法は、印象的で眼と心に食い込み、観応え十分。
鑑賞中ふとギリシャの監督テオ・アンゲロプロスの作品を思い起した。

公式サイトには昨年来日した主演俳優アフタンディル・マハラゼさん(ヴァルラムとその息子アベルの二役)のインタビューもある。

Q:今この時代に公開される意味は?
A:非常に重要だと思う。でも残念なことに、20年目に作られた作品を今観ても、古く感じないというのは、今も昔も状況は変わっていないということでしょう。

法廷でケテヴァンは「私が生きている限り(ヴァルラムを)墓地で眠らせません。」と言い放つ。
「死」はすべてを「浄化」し人々が死んだ者の罪や過ちを忘れ去ることを許すものではなく、死んでも尚負い続けなくてはならないもの、人々が忘れてはならないものは、あると思う。

「第七藝術劇場」に貼られていたポスター、いかにも昔の映画風のところが気に入り(上映終了後にでももらえないか?と)窓口で聞くと、「販売しています」とのこと。
目を引く人気ポスターということなのだろう。
さっそく部屋に飾って喜んでいる。大きな日本語がじゃまなのが残念。
懺悔

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2009年2月 4日 (水)

古いお寺を訪れる

近隣(といっても車で40分くらい)の山手にひっそりとしたお寺があると知人に教えられた。

高貴寺」と言う名前で、とても静かで人と会うという事もなく聞こえるのは椿の花が時々ボト!と落ちる時の音ぐらい、だとのこと。
日曜日の午後に行ってみた。
山の途中で車を降り、かなり急な道をどんどん登っていく。

「おとなしくかわいい犬がいて道案内をしてくれるよ」とも聞かされていたが、
「ん?犬が道案内?」とよくわからずにいた・・・。

坂を上りつめたところに、犬はいた。
高貴寺のわんちゃん
私の姿を見つけるなり「ワン、ワン」と声高に吠えつきながら、後ずさりするように移動していく。
たいした犬好きでもなくちょっぴり怖さもあって「どこがおとなしいねん」とぼやきつつ、距離を置きながらも何となく犬が進む方向につられていくと、そこに本堂らしい建物があった!
山深いところに位置し観光用に整備されていないお寺の本堂のありかはわかりにくい。
「そうか、これが道案内であったのか!」と納得するやら感心するやら・・・。

椿はもうすっかり落ちてしまい「ボト!」も聞こえず、歩くほどに静謐と静寂に満ちた空間に惹き込まれていく。
かつての栄華を感じさせる広い敷地は小さな森のよう。
樹齢を重ねた大木、鮮やかな濃緑の苔。
長年の風雪に削られたたくさんの石仏。
建物に彫られた細工の見事さ・・・。

高貴寺1

高貴寺2

高貴寺3

曇天の梅
ただ境内でぼんやりしているのも心地よさそうだし、一帯を幾度散策しても飽きることもないだろう。

あちらこちらで見つけた梅の大木は8分咲き。
白いもの、蝋梅らしいもの、赤いものもあったが、曇天の下ひなびた山奥に広げた枝は梅園にはない野趣があり見とれる。
春には桜が美しいとのことだし、紫陽花の群生(のあと)もあり四季折々、花木も愛でることができそう。

ほとんど人の姿を見ないことも大きな魅力だけど、もしお近くの方がおられたらぜひ一度訪れてみられることをやっぱりお奨めしておきたい。

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2009年2月 2日 (月)

「ふん、ふん」の相槌はあかん

職場の後輩は増える一方。2年ではや“古参“となっている。
もちろん、年も一番上。
年齢差は“際立つ”くらいのものがあるけれど、休憩時間も彼、彼女たちとの会話を楽しんでいる。
話題によってはまったく理解不能のこともあったりするのだが、「わかります?」と説明も加えてくれ、年輩の私を輪からはずそうとしない気遣いがうれしい。

この後輩たちから「(年やのに)とても前向き!」とよく言われるけれど、どんなに前向きでも“若さ”から発散されるキラキラしたエネルギーの前では線香花火の勢いもない。
もちろん負けん気などはみじんも起きず(自分に対しての負けん気はあるが)、輝いている若者たちと共に働くことを楽しんでいる。

が・・・、一月ほど前に入ってきた20代後半の新人とはどうも会話が続かない。勉強熱心で笑顔の多い女性なのだが、相槌は必ず「ふん、ふん」と言う。

「すみません、ちょっと教えていただきたいのですが・・・」と丁寧に切り出されることがある。
知っていることはできるだけきちんと教えたいと思っているので、実際にパソコンを操作しながら手順を説明していく。
そのときの相槌(というより返事なのだが)も「ふん、ふん」

状況にもよるが私は若者のため口は余り気にならない。
ところが、この「ふん、ふん」だけはどうも気力がそがれる。
教えを請われたときは、それでも最後まで説明するが、私的な会話でこの相槌が返ってくると、とても話を続ける気にならない。

なぜ「ふん、ふん」なのだろう・・・?
と疑問に思っていたら、昨日のラジオ番組でその解説をやっていた。
社会経験が乏しい若者たちの間で広くみられる状態であるとのこと。

なるほどと合点がいくものの、欠けているのはむしろ「社会経験」より、「ふん、ふん」という言葉を返すことが不適切と感じる「感性」だと思う。
彼女のことが嫌いというわけではないのに、その感性の前でしり込みしたまま「ふん、ふん」は止めよう、と伝えることはまだできていない。

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