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2007年1月31日 (水)

「咲ききれなかった花」

「咲ききれなかった花」という絵がある。
『ハルモニからの宿題』-日本軍「慰安婦」問題を考える 石川康宏ゼミナール編という神戸女学院大学の石川康宏ゼミが作り上げた本で見た。

韓国にある「ナヌムの家」には、10人ほどのハルモニ(かつて日本軍によって「慰安婦」を強制された方への敬意を込めた呼び方)が暮らされている。

「咲ききれなかった花」は2004年に83歳で亡くなられた金順徳(キムスンドク)ハルモニが描かれたもの。本にはモノクロ写真で掲載されていた。
白と濃色の清楚なチマチョゴリを着た10代後半の少女が足を揃えて立ち、その全身につぼみや大輪の花をつけた刺繍でできた花木が重なる。
ひっつめ髪をした少女は遠くを見つめているのか、あるいは何も見てはいないのか、清らかなその面立ちにはほんのひとかけらも華やぎはない。

この画像からなかなか目を離すことができなかった。
心揺さぶられるほどに伝わってきたのは、恨(ハン)といったものではなく「女」という性であることへの憧憬と深い悲しみ・・・。

金順徳さんご自身は潰された青春、奪われた純潔への断ち切れない思いを込めて描いたと話されていたという。
少女から女へと移ろうその前に、女であることの悲しみを徹底的に身体と心に叩き込まれて生きていく、そこからこの絵も生まれた。

元「慰安婦」に対して自国の社会も必ずしも理解があるとはいえない。故郷に帰ることができなかった人、家族から除外された人もおられる。

合意のない性交渉はレイプという犯罪であるということ。
恥ずかしい者は「辱め」を受けた者ではなく、それを為した方であるということ。
それらは自明のことなのに、韓国でも日本でも社会の意識として浸透していない。
その社会に向かって自分が元「慰安婦」であったと名乗りでた人たちの思い・・・。

首相官邸にどんなに高価な絵が掛けられているか知らないけれど、許されるならば「咲ききれなかった花」を譲り受けてはどうだろうか?
でも・・・きっとその絵を見ても何にも感じないのだろう。

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2007年1月30日 (火)

NHK番組訴訟に思う―ささやかな抗議

若い頃は、納得できないものには大いに抵抗していたのでNHKの受信料も払っていなかった。
「契約」した覚えもないのにテレビ購入で自動的に「契約済み」とされることへの反発だった。また実際にテレビはほとんど見ていなかった。
集金人は幾度も来て、そのつど人が変わり「押しの強い人」、「弁の立つ人」など相手も手を変え、品を変え、という感じだった。
どのような人が来ても、明確な意思での不払いなので「押し」でも「弁」でも負けなかった。

数年経って、確かに自分にあったはずの受信料不払いに対する信念のようなものがいつの間にか薄くなっていることにふと気付いた。NHKの番組を見る時間も増えていた。
「これでは、ただの出し惜しみではないか?」などと思えてきて、自分が払わないことの方に納得がいかなくなり、それ以降は払い続けてきた。

ところが2005年1月に発覚した(政治家の圧力による)番組改ざん。2001年1月放送の「慰安婦」問題を扱った「ETV2001~問われる戦時性暴力」でのこと。
ムラムラと怒りがこみ上げ、即抗議手段に出た。新たな「明確な意思」による受信料の不払い。NHKに電話をかけて抗議の主旨と今後の不払いを通達。(口座引落の中止)

その後この訴訟の行方には随分関心を払ってきた。

そして出た29日の高裁での判決。
原告の人たちの笑顔がまぶしい。

真っ向から戦いを挑まれたバウネットジャパンの方々はすばらしい。
内部告発をされた方の勇気もすばらしい。

まぁ、自分にできるのは不払いをもう少し続けることかな、NHKは懲りずに上告、などと言ってるのだもの。

でも・・・身近な知り合いにさえこの「不払い」も中々わかってもらえない。
「へぇ~、自分は正直やからテレビ見てるのにそんなこと、ようせんわ~。お金たまるな~」などと言われ凹むことがある・・・。

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2007年1月27日 (土)

電気屋のおにいちゃん

突然テレビのBSや地上デジタルが映らなくなった。電気関係は全くわからないので即電気屋さん頼み。
初めて近所の電気屋さんを訪れてみる。
若奥さん風の方が対応して下さり、夕方にはみにきてくれるとのこと。

夕方「ピンポーン」が鳴り玄関に出てみると、立っているのは電気屋の制服を着たまだ10代にも見えるおにいちゃん。一部金髪に染めた前髪を目が半分くらい隠れるくらいに垂らし少し背を曲げボソボソとしゃべる。

普段「偏見」には随分気をつけているつもりでも、心のどこかに「なんでこんな子を寄こしたのだろう・・・?大丈夫かな~?ホンマにわかるのかなぁ~?」といった感情がムクムクと・・・。

おにいちゃんは(もそもそと)リビングのテレビをあれこれ操作したり、配線を確認しているようす。その後外に出て1分もしない内に戻り「アンテナはどうもないみたいやから・・・」と言う。
道路から視認しにくい位置にある屋根のアンテナのようすを、そんなに簡単に判断できるの?・・・と不信がまた少しふくらむ。

「他にテレビはない?ブースターはどこにあります?アンテナにはブースターがあったから、これは室外と室内がセットのものやから絶対あるはずやから」と相変わらずボソボソ声でおにいちゃんから質問。
「ブースター?」今までその存在を意識したことはないけれど、とりあえずテレビが置かれている子どもの部屋2室に案内する。2つ目の部屋の片隅におにいちゃんはブースターを発見。
実は私も初めて目にした。アンテナ設置は業者にまかせきりで説明もろくに聞いていなかった・・・。そして子どもの部屋に入ることもめったにない。

その後おにいちゃんは何やらごそごそしてから1階に降りリビングのテレビをオン。ちゃんとBSや地上デジタルが映っている。
「おお~」と、期待していなかっただけにおにいちゃんの手腕?にいたく感心。「ありがとう!」と、もはや偏見はするりとすべり落ち心からの感謝が湧き上がった。

「ブースターのコンセントが抜けてたから・・・。多分携帯を充電しようと思って抜いたんですわ~」と説明してくれるおにいちゃんは何と笑顔。
この子の表情を固く、もそもそとした動きにさせていたのは「私の偏見」にも原因があったのだ・・・。

「お支払いは?」に、「コンセント入れただけやから・・・、また何かあったら・・・」と30分以上も時間をとらせたのに何も請求せずに「スリッパをちゃんとそろえて」電気屋のおにいちゃんは帰っていった・・・。

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2007年1月25日 (木)

ろうそくは灯っているか?―ブルンジのマギー

年の始めに新聞でいい記事を読んだ。1月8日付け朝日新聞「平和をつくる」シリーズで取り上げられていたアフリカ、ブルンジのマルゲリート・バランキツェさんのこと。

ブルンジは昨年『ホテル・ルワンダ』という映画によって知られるようになったルワンダの南に位置している。
マルゲリート・バランキツェさん(通称マギー)は、親を失った子どもたちを支援するNGO「メゾン・シャローム(平和の家)」の代表。
93年の内戦による惨事をきっかけに、教会の事務員だったマギーは孤児たちの世話を始める。
生活の場の保障に留まらず、成長した子どもたちの働く場(映画館、レストラン、ホテル、農場)や病院も運営する。
子どもたちが必要とするものをまっすぐに追求し実現させてきた愛と信念の人。

ネットで調べるとマギーの人となりとそれを支える精神が鮮やかに浮かび上がるインタビュー記事があった。
国際月刊誌シェア・インターナショナルのもの。
上滑りのない心深くに刻み込まれる言葉に満ちている。

さて、マギーを知ったその日から私の心の呪文は「ろうそくは灯っているか?」になった。

マギーの座右の銘は「暗さを嘆くよりも、ろうそくをともした方がいい」(これはどうやら元はマザーテレサの言葉らしい)。
この言葉通り、マギーは闇にいる子どもたちにろうそくをともし続けている。
それができるのは、マギー自身の心にいつもろうそくがともっているからだろう。
自分の心にともしびがないと、他のたったひとつの小さなろうそくさえともすことはできない。
私にはとてもマギーのようなことはできないけれど、せめて自分の心のろうそくだけは灯し続けたい。それがあれば、いつかどこかで誰かの為にろうそくを灯すことができるかもしれない・・・。
時に、妬みや僻みあるいは絶望といった黒い感情がムクムクを湧きあがってくる。その時につぶやく呪文、「ろうそくは灯っているか?」
負の感情に心を黒く覆われる前に自分でろうそくを灯す。
マギーに出会えた今年からは、ほんの小さなあかりでもいい、いつも心に灯していたい。

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2007年1月24日 (水)

『長い散歩』

昨日のYahooニュースの見出しに「虐待増え養護施設パンク状態」、とあった。
児童養護施設の説明として「保護者がいない、育てられないなどの理由で家庭で生活できない子どもが暮らす」とある。現在3万人の子が入所しており、その内5割の子が虐待を受けた経験があるとのこと。

奥田瑛二監督『長い散歩』に登場する5歳の女の子、幸(さち)も実母から暴力とネグレクト(育児放棄)の虐待を受けている。またこの少女は同居する母親の若い愛人からも性的暴力の可能性を感じ取り怯えている。

緒方拳扮する元校長、安田松太郎は少女を暴力下から連れ出し「ほんものの青い空」を見せる為に連れ立って旅に出る。
長い散歩
松太郎にとっては、大切な家族であったはずの妻をアルコール依存症から死へ追いやり、娘から「人殺し」とののしられるようになってしまった自分の来し方を見つめ直す旅でもあった。

子どもの虐待という深刻な社会問題を扱いながら、映画全体から受ける印象はファンタジックなもの。
その要因のひとつと思われる、散りばめられた美しい自然には惹かれるが、ストーリーや細部がリアリティに乏し過ぎることはとても気になった。

ファンタジックな要素も含めてさまざまな救いをもたせた展開(たとえば幸が声を上げて笑うようになる、旅の具体的な目的「ほんものの青い空とわたあめのような雲、白い鳥」を見ることを果たす、刑事が2人の心情を理解するなど)は鑑賞している私にも大いに救いとはなったのだけれど、そうした中でなぜか1人の若者には死を選ばせいる。

旅の道連れとなるワタルというザンビアからの帰国子女(男の子)、貧困やエイズ、紛争で毎日バタバタと人が死んでいくのを目の前で見てきた若者は日本の社会に馴染めずにいる。
そのワタルが彼を慕う幸(と松太郎)の前でピストルにより自死を遂げてしまう。

もっと説明がほしい場面、逆にこれは余分かな、という場面は少なからずあるけれど、この若者の死が一番(不自然で)不本意。死なせたくはなかった・・・。
(松田翔太が演じる魅力的な子だった)

また私は実際に虐待を受けている場面(壁越しに)やその子に接したことがあるのだけれど、胸がひきさかれるような苦しさと痛みに襲われた。この映画の虐待場面ではそうした感情は全く湧き上がってこない。これもまた「救い」なのだろうか?

さて、テーマもさることながら、緒形拳ファンとしては期待十分での鑑賞。「緒形拳を主役にした映画を撮りたかった」と監督は語っていたのだ。
だけど・・・熱演ではあったけれど、独特の凄味に欠けていたところがちょっと残念かな。

とはいえ総合的には「現実はこんなもんとちがうやろ~」とつっこみたくはない、ひとつの作品としてのおもしろさがあると思う。

映画は松太郎が刑務所から出所するシーンで終わる。(でもこの犯罪、実刑にはならんやろ~?)
松太郎のどこか吹っ切れたような表情を見ながら、あの少女は再び家庭で虐待にあっているか、または児童養護施設に入所となっているのだろうなぁ、とたちまち実際的な思いに心は飛んでいった。

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2007年1月23日 (火)

いたましいー宝塚カラオケの火事

この20日に兵庫県宝塚市のカラオケ店で起きた火事。3人もの若い命が奪われた悲しいニュース。
この若者たちを心から哀悼するものではあるけれど、業務上失火と業務上過失致死で逮捕された女性店員の人のこともまたとても気にかかる。
ラジオでの一報、「泣きながら女性のアルバイト店員が、『炎が燃え上がっている』と店内の客に知らせた」で感情移入してしまったのかもしれない。
「泣きながら・・・」、まざまざと目に浮かぶようなその時の衝撃と狂おしさは数日経た今、悲嘆と絶望に変わっているのだろうか。

加熱している天ぷら油から目を離すという重大な過失を犯したものの、その結果として背負わなければならなくなったものは余りに大きい。
同じミスをしても、きちんと防火安全対策をとっている店で働いていたならその人の現在と未来は全く違ったものになっていただろう。
あるいは経営者不在の時には一人で客の応対、調理、清掃などすべてを担うという無理な体制でなければ、そのミスはなかったかもしれない。
それは、過酷な労働条件による過労や睡眠不足から人身事故を引き起こすケースにも通じるもの。

十九歳や二十歳くらいから、本人の希望であったのかどうか「アルバイト」の身分で働き続け、数分の油断が残させた一生の悔い。
犠牲者とその家族、そしてまた自分の家族をも巻き込んで。

この女性店員の責任と己への呵責は、生涯逃れようもないだろうけれど、責める気持ちはちっとも湧いてこない。

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