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2007年2月27日 (火)

次のマラソンは「9条」ウェアを着て

しょぼしょぼ降る雨の中を走りに出た。
途中で大雨になったのも、ほてった身体にとても気持ち良かった。

日中はダーと汗が出るような労働をして、夜早くコテンと寝て、朝早くすっきり目覚める、という生活にあこがれながらも実態は正反対。
日中は仕事で一日パソコンに向かい、夜もまた・・・。グダグダとものを思いなかなか寝付けず、夜中には何度も目が覚め、朝はシブシブ起きる・・・。

せめてもの身体や心へのいたわりが、たまにするランニング。
酷使している目にも、リズミカルに足の裏で地面を蹴る刺激はとてもいいらしい。
走っている間にもあれこれ思うので、耳にはiPod。

市民マラソンへの参加経験は数えるほどだけど、次からの参加にはちょっとワクワクしている。
「RUNNERS 9の会」に入れて頂いたのだ。
といっても連れもって走る、というわけではなく「9条」をデザインしたウェアを着て走り、仲間を見つけたら声を掛け合うくらいか・・・。

憲法9条 [戦争の放棄・軍備および交戦権の否認]は、自分の世代はもちろん、子やその子、またその子・・・といつまでもいつまでも続いて欲しい。
でもどうやら、その思いをひっそりと抱いているだけでは心もとない時代に入っているらしい。
そこで「RUNNERS 9の会」をネットで見つけたとたんに入会し、さっそくウェアもお願いした。

ランパンをはくほど鍛えた足ではないので、とりあえずランシャツをTシャツの上に着て走ろうかな。5キロとか、長くても10キロくらい。

アピールという意味もあるけど、何より9条への思い抱きながら走るって何だかステキ。
「あっ、仲間だ」と、声を掛け合うのもステキ。

そんな大きな張り合いもできたし、あまりブザマなレースにしない為にも日々走るぞ~!

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2007年2月26日 (月)

『あなたなら言える秘密のこと』―「生きること」への本能

「誰でも前を向いて生きようとしている、でも挫折する人もいる」、正確な表現は忘れたけれど、これは心に深い傷を負って生きているハンナのセリフ。
『あなたなら言える秘密のこと』イサベル・コイシェ監督(スペイン映画)のこと。

ハンナに「挫折」を選ばさなかったのは、理屈や感情を超えた「生きること」への本能なのだろう。
友だちや趣味も作らず、すべての楽しみを放棄して工場と自宅を行き来するだけの生活。それがハンナの「生きる場」にも関わらず、一般社会はほっておいてはくれない。
働き過ぎという工場仲間からの批判を受け、無理やり1ヶ月の休暇を取らされる。
その休暇先で、油田掘削所の事故による重症患者の看護を申し出る。
唐突な申し出のように感じるけれど、それは休暇先で苛立つハンナが本能的に嗅ぎつけた自分の居場所なのだろう。

一般社会から隔絶された油田掘削所には、やはり社会にどこか背を向けた男たちばかりがいる。
その場もその男たちもハンナにとっては心地良い。自身を覆うがっちり固めたガードが少しずつほころび始め、食べること、音楽を聴くこと、そして人と交わることなど本来ハンナがもっていた「生きることの喜び」がじわじわとにじみ出す。

ハンナが看護をするのはジョゼフという骨折や火傷で重症を負った中年男性。
ジョゼフは饒舌にユーモアたっぷりにハンナに語りかけるものの、やはり心に深い傷をもっている。

心に傷を負う者は、それを懸命に隠そうとするけれど、一方ではそれを吐き出すことへの強い欲求もある。
ハンナとジョセフはついに「秘めた傷」を伝え合う。
しかしハンナの告白は、自分がジョセフの前から姿を消す、という前提があればこそできたこと。
それほどに受けた傷は深いものだった・・・。

ジョセフは互いが生きるに必要な存在だと確信し、ハンナを探し出そうとする。

かつてカウンセラーは、治療を2年間続けながらも、ハンナの心のガードを崩すことができなかった。
人と人との出会いや「男と女の愛」の不思議。
生きる喜びや生き直してみようという勇気までもたらし、生き方そのものを変えてしまう。

だけどそれも「生きること」への力強い本能があってこそ。
その本能こそ人間(及びすべての生物)にとって何より崇高なもので、使命なのだと思う。

生き抜いてほしい、生き抜きたい。

また人を取り囲む社会は世界中のどこであっても、それができるものであってほしい。

人が、報道以上のことを知らないし、知ろうとしない他国の戦争や内戦のこと。
そして知ったことまですぐ忘れ去るけれど、それが為に心に傷を負った者はずっと苦しみ続ける・・・。

この映画が描き出す現実はとても重い。
それでも人の「生きる力」やそれを支える「希望」にも満ちている。

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2007年2月23日 (金)

「赤ちゃんポスト」と呼ばないで

厚生労働省が設置を認める見解を示したことで、再び報道に上がってきた「赤ちゃんポスト」。
それは、昨年に熊本市の慈恵病院が「尊い赤ちゃんの命を救いたい」という主旨から申請を出していた、保護者が育てることのできない新生児を預かるシステム。

朝から新聞紙上やラジオから伝えられる「赤ちゃんポスト」という言葉を聞くたび心が騒ぐ。
なんという無神経な表現だろう。

慈恵病院によるネーミングは「こうのとりのゆりかご」であったはず。
いつの間にかメディアでの報道は、「通称『赤ちゃんポスト』」といった並列表記まで省略し、「赤ちゃんポスト」一色。
その表現に感じるのは、言葉を大切にして、ことの本質を伝えるというメディアが本来担うべき真摯な姿でなく、煽り。

郵便物を投函するときのように、ポイとほりこみ人の手に委ねるという安易さばかり浮かびあがらせ、本質を考える以前に反発や揶揄を感じさせる。
慈恵病院が、何より大切とした「命の重さ」がまったく伝わらない。
育てることができなくて親も赤ちゃんも窮地に陥り、ときには命まで奪われる現状にあって、慈恵病院においてもぎりぎりの思いでの決断であったはず。

「ポスト」という軽いイメージのまま一般に定着することこそ、危惧されている「安易に『赤ちゃんポスト』を利用する」ということにもつながるのではないだろうか?

他方「こうのとりのゆりかご」という言葉。
命の神秘さ、赤ちゃんにこめられた想いがしっとりと伝わってくる・・・。
だいたい、そもそもがこのネーミングであったのだから、メディアはこれで伝える義務を負わないのだろうか?
設置の是非を論じる必要を説きながら、まず偏ったイメージを植えつけてしまうやり方に怒り!

実際に設置されることになれば、「赤ちゃんポスト」にいた子が育っていく。
ルーツを知らせる必要が起きた時(または知ってしまった時)
「あなたは赤ちゃんポストにいたのよ」とその子に伝えるのか?
そうではなく「こうのとりのゆりかごで、すやすやと眠っていたのよ」と伝えてやりたい。

【参考】
このシステム発祥の地、ドイツではBabyklappe(ベービークラッペ)と呼ばれている。クラッペとは、開け閉めする為のものの総称。
郵便ポストのフタもクラッペ。

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2007年2月22日 (木)

『沈黙の春』と『不都合な真実』

今朝の朝日新聞、天声人語に、『沈黙の春』の著者で【農薬などによる公害をいち早く告発した】レイチェル・カーソンのことが書かれていた。今年が生誕100年にあたるとのこと。
その名前を見て、アル・ゴアの『不都合な真実』に抱いていた、もやのようであった違和感の正体が見え出した。

『沈黙の春』(原著は1962年アメリカで出版)は膨大な実証データに基づき、化学薬品が自然界に与える影響を説き明かしている。その時代に与えた衝撃は、恐らく情報網が発達した今の時代の『不都合な真実』の出現の比ではないだろう。
ベストセラーとなり、政府の政策(化学物質使用の推進)を中止させる力にもなった。

画像や図表は全くないけれど、秀でた文章力、表現力は具体的なイメージを描かせてくれるに十分なもの。
次々に展開される地球環境への汚染実態とその先見性は、読み手をぐいぐいと惹き付ける。

正に【春になっても自然が沈黙したままの死の世界を描いた】「沈黙の春」は、この本の出版24年後にチェルノブイリに起きた・・・。

『沈黙の春』と『不都合な真実』は共に、人間が地球に何を為しているか、またひるがえってその事がもたらす人間への影響はいかに深刻かを克明に伝えている。
それでいて、レイチェル・カーソンは人間を地球の主人公とみていない。
自然界における人間の存在を謙虚なところにおいている。
地球には「生きとし生けるもの」が共生し、そこに流れる時間は(人間の力に左右されるものではなく)自然の歩みそのものである、という考えが貫かれている。
それこそが地球を考えることの原点だと思う。

一方、ゴア氏の『不都合な真実』では、人間が地球を支配する(できる)立場として浮かび上がってくる。
自然を人間に寄与してくれる存在として捉えているように感じる。
どうやらこの感覚が、もやのようにひっかかっていた一因のよう。

確かに人間は、自然界に対して大きな力を発揮して、その秩序を乱し破壊を続けてきた。
それを可能な限り修復させ破壊を最小限に留める義務を負っているだろうし、またそれができるある程度の力もあると思う。
でも何より、地球は人間のものではないことを忘れずにいたい。

『不都合な真実』は「このままでは自分たちに、とんでもないことが降りかかる」と、多くの人に、環境改善の為に行動するするきっかけを与えている功績は大きい。
その事が結果的に地球を守ることにつながれば、とてもすばらしい。
でも、やっぱり私はレイチェル・カーソンの感性にならって地球環境を考える方がしっくりくるかな。

レイチェル・カーソンの著書『センス・オブ・ワンダー』からの引用を少し書いてみる。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー・・・神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいと頼むでしょう。」

「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。」

※文中【 】内は朝日新聞、天声人語からの引用。

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2007年2月20日 (火)

「ボクが受かったから、あいつは落ちたのかもしれない」

先日、高3の子が受験した私立大学の合格発表があった。
翌日には速達で、合格通知書と入学手続き関係書類が送付されてきた。

昨年末に最高裁が出した統一見解によれば、3月末までの入学辞退であれば授業料は返還が認められるが、入学金については大学側に返還義務はないとのこと。
送られてきた書類もそれに添った内容、
・入学金(26万円)は今月22日までに納入、返還はしない。
・授業料他諸費は3月23日までの納入、辞退申し出があれば返還する。

子どもの本命は某国立大(3月7日合格発表)であり、センター試験の結果は合格ラインを十分に超えていた。(マークミスが無い限り判定できるシステムがある)。
センター試験のみで合否を決めるその私大に合格していたということは、マークミスもなかったということ。
万が一の受け皿として、もうひとつの国立大後期受験も手続き済み。

こうした状況から親子共、入学金納入は不必要の判断に落ち着いた。

ところが一転、翌日になると子どもは「自分の貯金から半分出すから、入学金を納めてほしい」と言い出した。その表情も声も沈みきっている。
涙をこらえているのかボソボソと、つっかえながら話すところによると
「その大学に行きたくて3つの学部を受けた親友(家にも来たが二人は真剣に勉強していた)が、どれも受からなかった」とのこと。
「(そこには行かないのに)ボクが受かったから、あいつは落ちたのかもしれない」
「合格枠をひとつ取ってしまったのに、それをポイと捨ててしまうことなんか、したらあかん・・・」

それは多分に感傷的な考え。
結局は行かないのだからその私大に利益を与えるだけで、友に還元されるものは何もない。
今後の学資にかかる金額を見通しても、26万をみすみす捨て金にする余裕はない。

親(大人)としてはまっとうなこれらの意見を口にしかけたものの、子の憔悴した顔を見ると「納入日までに数日あるから、もう少し考えてみよう」と言うのがせいいっぱい。

そして今日、入学金26万円を納入した。
入学担保の意味合いではなく、息子の思いに寄り添ってやりたいから。
「勝ち組、負け組があるのは当然、競争に負けない為にがんばるんや」などと言ってはばからない大人になってほしくないから。
捨て金ではなく価値のある26万になったと思っている。

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2007年2月19日 (月)

『善き人のためのソナタ』

『善き人のためのソナタ』フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督。
梅田シネ・リーブルにて鑑賞。

1984年の東ベルリンを舞台に、旧東ドイツのシュタージこと、秘密警察・諜報機関である国家保安省の実態を描きながら物語は進行する。
人口1700万に過ぎない国にシュタージ職員は約9万人。
それ以外に、相互監視のしくみを作り出すことになる職場や家庭における民間情報提供者が17万人。
社会と日常のすみずみにまで、国家権力が入り込んでいる。
そこでは、たとえ才能や実力があっても国ににらまれるとたちまち社会的地位や職業を失い、生きる場を見つけられなくなる。

多角的に明らかにされる実態は衝撃的なものではあるけれど、映画はそこにばかり焦点をあてたものではない。
国や社会がどのような状況であれ、人は懸命に生きようとする。音楽や書物、演劇などの美しいものに心震わせ、愛する者との日常を慈しむ。たいていの者は善き人でありたいと願う。
そうした普遍的な人の姿を描き出している。

ヴィーラー大尉は、仕事に忠実ながら無表情で孤独に生きるシュタージ局員。
劇作家のドライマンと同棲相手である舞台女優のクリスタの住むアパートの1室に盗聴設備をはりめぐらし、徹底した監視を始める。
盗聴を通じて接するドライマンとクリスタの人間としての赤裸々な喜びや苦悩、また書物や音楽に、ヴィーラー大尉はしだいに心引き寄せられていく。

ドライマンを心から愛しながらも、保身の為に裏切ってしまうクリスタ。
それでいて自身でその裏切りに耐え切れなくなる・・・。

体制の中で生きて来たドライマンは失意で自死した友人に関わる義憤から、国家に対してある反逆を企てる。
徹底した監視下におかれていることに気が付かないドライマンが、それを成功させることは本来なら絶対に無理なこと、それを可能にさせたものは・・・。

サスペンスとしての要素も十分なストーリー、個性を存分に発揮させた役者たち、哀切を帯びた美しい音楽、特に秀逸なラストの場面まで2時間半を全く飽きさせない。
鑑賞後もなお切々とした余韻を残させる。

1990年、西ドイツに吸収されるという形で統一され姿を消した「東ドイツ」。
今その体制に真正面から向かい合う優れた映画が製作されたこと、それを鑑賞できたことをとてもうれしく思う。

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2007年2月17日 (土)

着物地のクッション

お雛様
今では絹製品も安価なものが流通しているとはいうものの、日常的に手が届くような暮らしぶりではない。
それなのに、毎日のようにその滑らかな光沢としっとりとまとまりついてくる柔らかい手触りを慈しんでいる。

それは母が遺した着物。一枚一枚たとう紙の中に美しく整えられ、ほんのりと樟脳の香りを漂わせている。どれも和裁を職業とした母が自分で縫った。
見ていて飽きない華やかさだけど、しばらく前に数枚を残しすべてほどいてしまうことに決めた。
母が一針一針たんせい込めた美しい縫い目を切りほどくことにチクチク痛みを感じながらも、思いがけずそれは豊かな時間となっている。
ほどいているときの、手ばかりでなく足や身体を覆う絹の感触はとてもやさしく心地いい。
それは例えば、土のあたたかさを感じるぼってりとした器に惹かれたり、無垢の家具にやすらぎを感じたりすることと同質のものかもしれない。

さてそのリフォーム作品。母から器用さを受け継がなかったのは本当に残念だけど、アイデアとやる気だけが頼りどころ。

ほどく時間が大好きだから、ほどかれたものは既に山とたまっている。でも、次の水洗いして生乾き状態でアイロンをかける作業がとどこおり気味。
やっと出来上がったものがあるので、今後の励みにもなるようブログにアップすることにした。

リビングに置いている椅子の形はさまざま。それぞれに合わせて作ったクッション。青色を基調として、綸子とウールの縞お召しを組み合わせた。中袋は長じゅばんをほどいて作り、着物との重ね着?であるところが気に入っている。丸椅子用のものはお手玉と同じ作り方。

トップの画像は玄関近くに置いたクロス。これは若い頃、私が着ていた訪問着。「お雛様も喜んでいるだろうな」と自己満足。
下駄箱の上にもお揃いのクロスを置いた。
クッション1
クッション2

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2007年2月16日 (金)

「延命」で思う・・・『楢山節考』のおりん婆さん

「どのように生きるか」は常に意識としてあり、具体的な日々の営みに反映させていきたいと願っている。
その延長線上に死は確実にある。
まだ少しは先のことだろうと感じているけれど「どのように死んでいくのか」、
それはどれくらい思う通りになるのだろう?
と、朝刊で読んだ「延命中止」関連記事からしばし「死」について考えていた。

親や兄も見送ったし、物語や映画などでは数え切れないくらい死をみてきている。
その中で自分の心を掴んで離さないのが『楢山節考』のおりん婆さん。
(ブログのHNにさせてもらっている)

村の掟に従い、70歳になる前に息子に背負われて登った「姥捨て山」。
おりんは1人、降りしきる雪の中で死を迎える。

「とんでもない掟」、「おりんがかわいそう」、「悲惨な物語」といった評価をよく聞くけれど、私はこのおりんの生き方、死に方に深い憧憬がある。もちろん小説としても、まるで一連の歌物語であるかのような『楢山節考』はとても好き。(木下恵介、今村昌平、両監督の映画も共に良かった。)

村の人は例外なく貧しい。ぎりぎりの生活の中で脈々と命は受け継がれていく。
新しい命が芽生え、老いた命に死が待つ。大自然の営みの中に人の営みがある。
おりんは頭も身体もまだたっしゃだけど、生への未練を見せない。
おりんにとって「死」とは掟に強要されたことではなく、自分で決めたことであり「楢山さま(山の神様)」と同化すること。
凛として生を終えようとするその姿に悲惨さなど、みじんも感じない。

私もできるなら、このおりんのように死んでいきたい。
もちろんそれは「姥捨て山」に行きたいという意味ではない。
自分が大自然の中に生み出された命のひとつに過ぎず、それは限りなく受け継がれていくものだということ、
生きることも死ぬことも誰かに(何かに)強要されたものではなく、自分で選びとったもの、あるいはごく自然な摂理に従ったもの、
それらを心と身体で実感して死を迎えたい。

そして何より、おりんが生に未練を残さなかった理由―「せいいっぱい生きてきた」という感覚を自分のものにしていたい。

身体全部、人としての智恵、それらを存分に使ってきた生活力あふれるおりん。
そうした生き方をしていると、自ずと死の形は決まってくるのだろうか・・・。

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2007年2月15日 (木)

10週待って届かなかった・・Amazon

ネットショッピングは購入する業者を分散するようにはしているけれど、品揃えや便利さからAmazon利用は多い。
各種メルマガがこまめに配信され、過去に買ったものから好みを推測して「おすすめ商品」のリストアップまでしてくれる。
個人情報を握られているこわさも有り「そこまでするか」とあきれながらも、自分の欲しい商品がちゃんと含まれていたりするのには苦笑だけど。

さて、去年の11月にAmazonでCDを注文した。自動返信メールには発送可能時期と配送予定日が明記されていた。(2週間後くらい)
配送を心待ちにしていたのだけれど、「配送予定日」期間内に届いたメールはカスタマーサービス部門からのもので、「商品確保ができておらず、発送が1~2週間ほど遅れます」というもの。

その後、2週間おきにメールが3回届き、いずれも同じ内容。
・商品がまだ確保できていない
・発送が1~2週間ほど遅れる
・キャンセルは可能
・発送の「遅れ」で迷惑をかけたことをお詫び

これの2回目が届いた時には、注文した日から既に1ヶ月半経過していた。
もはや「商品が入手できる見込みはないのでは?」との不安は起きたものの、キャンセルするつもりはなくこちらも長期戦の構えに入る。

結局、さらに2週間経ってから届いた最後通告は、「大変残念なご報告」として、商品が入手できないとの内容。

「1クリック注文」や「翌日お届け」などのサービスもあるくらい、速さも売り物のAmazon、CD1枚が入手可能かどうかがわかるのに2ヶ月半もかかるなんて、どうなってる?

おまけに、気落ちから立ち直り、同じアーティストのCDを新たに注文しようと思ったら、何と「あわせて買いたい(おすすめ商品)」のところにその入手できなかった商品が登場していた・・・。
最後通告から10日経っている。入手できない商品を表示からはずすのに、そんなに時間がかかる?
それとも今なら買える?
それを試してみたい誘惑もあるけど、Amazonからの言葉ばかり丁寧で全く誠意のないメールは当分見たくないしなぁ・・・。

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2007年2月14日 (水)

「六カ国協議」のことを書いてみる

未だ「女に政治のことはわからん」と言われることもあるけど、ホントにわからん、むつかしい・・・。

女同士寄るとおしゃべりは尽きない。たわいもない話ばかりのようでも、
たとえば子どもの話題から
「ああ、そんな考え方もあんねんなぁ」
「知らんかったわ~、ええこと聞いたわ~」と大いに示唆を受けたり学び合う、ということがある。
でも政治の話はめったに出てこないから、そんな場で磨かれることもなく疎いまま。
平和や環境のこと、大切な家族との日々の営み、みんな「政治」抜きでは考えられない、ということはわかっているのになぁ・・・。

とはいえ、そんな私でも今回の六カ国協議の結果にとても喜んでいる。
理由はいろいろあるけれど、まずこれが外交、「話し合い」で得た成果であること。
外交があり、その成果がある限り「武力や戦争」のカゲを感じなくてすむ。

それから北朝鮮へのエネルギー支援、そして貿易制限解除などの見通しができること。
先の女同士の会話でも「北朝鮮はとんでもない国やな~」という話は出る。確かに信じられないような体制をとる国であると思う。でもだからといって、その国に生きている人たちのことを「あんな国に生まれてんから、しゃぁないわ~」と切り捨てることはできない。
そもそも同じアジアの隣国、仲良くできれば一番いい。互いに信頼関係が築ける可能性をほんのホンノ少しでも信じていたい。
「とんでもない」首領、金日成は抗日闘争から登場してきたことも忘れられない。
(もちろんかといって、拉致のような卑劣なことは絶対に許せないけど)

それからやっぱり、北朝鮮が核の放棄に踏み出したこと。
核兵器の廃絶は切なる願いながら、世界中にあるその量を考えるだけでクラクラしそう。それでも増えるより減る方が絶対にいい。
ましてそれがすぐ近くの国にあるものなら尚更のこと。

6つの国にはそれぞれの思惑や裏もあるのだろうけど、合意をみたことが私は素直にうれしい。
あとは更なる外交力、持続力で合意項目の確実な履行にこぎつけてほしい。
そして日朝の直接協議では、何としても日本の外交力に期待したいところ。

とまぁ、
「こんな風に私は思うけど、みんなはどう思う?」と気楽に女同士で語ることができたらなぁ。
「そりゃぁ、アンタ考え甘いで~」と一斉に返ってくるとしても・・・。

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2007年2月13日 (火)

♪春の風が吹いてきたら

♪春の風が吹いてきたら めだかもちょうちょも小鳥たちも
 嬉しそうに笑うだろう 春だよ ぼくらの春が来たよ
 北風なんかあっちの方へ行っちゃえ
 素敵な春が ほんとに来たんだ ワーイワイ!

 ♪春の風が吹いてきたら キャベツもぼくらも白い雲も
 嬉しそうに歌うだろう 春だよ ぼくらの春が来たよ
 仲間じゃないか ぼくたちみんな
 待ってた春が ここにも来たんだ わーいわい!

子どもたちが小さい時によくいっしょに歌った。
北風なんかちっとも感じなかった今年もやっぱり春は待ち遠しい。

小さい花壇に植えた球根たちも、土の下でちゃんと命を育んでくれていたらしい。

チューリップ、クロッカス、ヒヤシンス、アイリス、チオドノクサ、ユニフローラ・・・
年を越した頃から芽が出るまで幾度も土の表面を眺め回し、「芽」を見つけてからは少しずつ少しずつ背が伸びていくのを飽きずに見守っている。

時満ちて、色とりどりに花開く日がとても楽しみ。
だけど・・・毎年家近辺につくしはないしタンポポもちょっぴり、小鳥やちょうちょも見かけることは少ない。
花壇の球根ばかりに「春の訪れ」を感じるのも、どこか寂しい。

今年のような暖冬は寒がりの私にはとってもありがたいけれど、「こんな年も、まぁあるのだろうな」などと、のん気に考えていてはいけない時代に入っているのだろう。

「春が来たよ」との自然のささやきがあちこちから響いてきて、思わず親子で春の歌をくちずさむ・・・かつてのそんな頃は地球も私も元気だった?

いやいやまだまだ地球も自分も元気!だと信じたい。
子どもたち、そしてそのまたその子どもたち・・・に美しい春を幾度も幾度も迎えさせてやる為にすることはいっぱいある。

球根の芽
左からチューリップ、チオドノクサ、ヒヤシンス。

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2007年2月12日 (月)

書籍版『不都合な真実』

アメリカの元副大統領であったアル・ゴア氏が世界各地で行っている環境問題講座を映画化したものは上映中、観客も多いよう。その書籍版を買ってきた。
300ページを越す厚い本には数百点にも及ぶ写真やグラフが盛り込まれ、

地球温暖化の急速な進行が明白なこと、
その結果による環境破壊が人々に与える影響は多大であり、しかも目の前に迫っていること、
それでもそれを防止する力が人間にはあり、具体的な方法もあること、
が説かれている。

不都合な真実 まだ全体をざっと見終えただけで画像やデータ、論点のひとつひとつにじっくりと向かい合うのは今から。
具体性や説得力にあふれた本なので、少し暑かったり寒かったりするだけでエアコンのスイッチに伸びそうな手を止めてくれたり、豊富な湯量のシャワーを浴びたいという誘惑を抑えてくれることにも大いに役に立ってくれることだろう。
2800円(税抜)という価格設定に一瞬の迷いはあったものの、買ったことに後悔はない。

でも・・・、高いからというより期待度が大きいからなのだけれど実のところ不満もある。
まず製本や構成にひっかかる。急きょ出版が決まり、時間的余裕がなかったのだろうか?
正方形に近い大型サイズの重い本だけれど、そこに配置されたたくさんの画像、重ねられた文字列が見にくいと感じるものが多い。
また、細かいゴシック体がびっしり並ぶページが狭い3段組。両ページにわたると実に読みにくい。
目次がもうけられていないことも、とても不便。
たくさんの人の手元にと願うだけに、書店でペラペラとめくって「読みにくいなぁ」と置いてしまう人がいては残念。

内容に関しても少し。
温暖化の原因から「今あなたにできること」まで具体的に網羅されていながら、最大の環境破壊と言われる戦争に関して言及されていない。
たとえば温室効果ガス排出量の80%を占めているCO2に関してのたくさんの記述にも、戦争関連のものは含まれない。

湾岸戦争の際、幾つもの油田が炎上した為に排出されたCO2はどのくらい膨大なものだったろうか?
一般車両などとは違って規制のない(?)軍事関連活動によるCO2排出量はどれくらい?
といったものの答えとなるデータや関連論議があって欲しい。

それを取り上げない「不都合な真実」でもあるの?などとつっこむつもりはないけれど、環境問題に関して多大な実力と影響力をもつゴア氏だけに、惜しい。

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2007年2月 9日 (金)

『赤い鯨と白い蛇』

『赤い鯨と白い蛇』を観てきた。
監督である「せんぼんよしこ」という人は知らなかった。78歳という年齢でありながら、初めて映画制作に取り組まれたとか。
「創り上げたい」「伝えたい」という強い思いの正体を確かめてみたかった。

物語は、海辺にある茅葺きの古い家を舞台に女性ばかりの登場人物によって繰り広げられる数日間を描く。
もの忘れがひどくなってきた老女の雨見保江(香川京子)は完全に記憶がなくなる前にどうしてもしなければならないことがあり、戦中に住んでいた民家を訪れる。
同行するのは孫娘の明美(宮地真緒)。
小学生の娘、里香(坂野真理)と暮らす古い家の持主、光子(浅田美代子)の好意でしばらく滞在することになる。
滞在中に元住人、美土里(樹木希林)もわけありのようすで訪ねてくる。

「戦争のために ぼくは正直に生きられませんでした。正直に生きてください」と保江に書き遺して若い命を散らした海軍少尉。
「自分が忘れたらその人は2度死ぬことになる」、記憶力がおぼろになり始めた保江にある強い焦燥・・・。

保江の心深くに刻み込まれているのは、淡い恋心を抱いた人への想いを超えて「生」をまっとうできなかったたくさんの人たちの無念なのだろう。
その人たちが生きることのなかった60数年を保江は生きてきた。
その長い年月に、時代と命は幾世代へも受け継がれてきている。

作品に息づいているものは命への賛歌。
その命を産み出す女たちへの賛歌。

しわ深く物忘れがひどいおばあちゃんの生も愛しい。
あやしげな商売をしながら悪人になりきれず苦しむ美土里の生も愛しい。
家を出て戻らぬ夫を忘れようとしながら果たせぬ苛立ちを抱える光子の生も愛しい。
携帯電話を手放せない「今どきの」フリーター、明美の生も愛しい。
子どもらしいまっすぐな感性をもつ里香の生も愛しい。未来を照らすような存在だ。
思いがけず明美の胎内に芽生えた新しい命も愛しい。

そして、その脈々と受け継がれていく命の対極にあるのが「戦争」。

美しく雄大な空と海、どこかなつかしいような風景、やさしい音楽、演技達者な役者たちが織りなすせんぼんよしこの思いはヒタヒタと伝わる。
次世代である私はその思いを確かに受け継ぎたい。

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2007年2月 8日 (木)

医療制度改悪、今さらながら実感

必要があって2年ぶりにある病院を訪れた。
そこは、20数年前に初めての妊娠でかかって以来、小児科、内科、外科、歯科他で家族そろって幾度もお世話になってきている。
他市に位置した総合病院だけど、医療にもシステムにも信頼をおいているかけがえのない存在。

いつものように受付で手続きをしようとすると、「紹介状をお持ちですか?なければ特定医療費として別途2100円をご負担していただくことになりますが、よろしいでしょうか?」
と問われた。

「あ~、アレはこのことだったのか・・・」と今さらながら合点がいく。
2005年末、厚生労働省は健康保険法改定を図り、機能分担を目的として「かかりつけ医」と大きな病院に区別をつけたことは確かに報道で知っていた。

普段に診てもらえるところは「かかりつけ医」で、どうしても大きな病院で診てもらいたい場合は紹介状をもらうか、あるいは別途料金を支払うかの必要があったのだ。

でも・・・・私にとっては(もちろん他のたくさんの人にとっても)ここが「かかりつけ医」。
ずっときめ細かい診療に応じてきてくれていたのだ。

この制度には、老人医療やひとり親家庭など支払い対象外になるケースも設定されている。
だけど、命や生活に直結する医療のことなのだから、「信頼できる病院で信頼できる医師に診てもらいたい」という願いは万人に共通のはず。
「改正」であるなら、そのような根本的な思いに応えたものであって欲しい。

しかも本来はダメでもお金さえ出せば認められる、というからくりにも疑問が残る。

とはいえ「知って」いながら自分にふりかからなければ実感が湧かない、という乏しい想像力は我ながら情けない・・・。

厚生労働大臣の「失言」で国会は紛糾していたし、マスコミや世間も湧いているけれど、こんな騒ぎにまぎれて、どう考えても「改正」とは思えない生活を脅かすような法案や新法案がまた提出されていくのだろう。
もちろん「失言」もほってはおけない性質のものだけれど、そこにばかり目を向けていると気が付けば「法案は成立」、となっている。

自分も随分無知だし、想像力も乏しい、せめてマスメディアがもう少し大事なことの問題提起や追及をしてくれるとありがたいのだけれど。

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2007年2月 7日 (水)

受信料集金の方には申し訳ないけど・・・

数日前のエントリーにも書いたように、現在はNHK受信料を払っていない。
口座自動引落の停止措置をとってからも、集金の人は幾度か来られている。
今日の方はいかにも温厚そうな年配の男性。

「NHKの者ですが、受信料をお願いします。」
「申し訳ないのですが、先日に判決が出た『政治家の圧力による番組改ざん』に関して抗議の意味で、しばらくは支払うつもりはないのです。」
「えっ、それって関西テレビのことじゃないのですか?」

どうやら『発掘!あるある大事典』の番組捏造の件と勘違いされているよう。

ひととおり説明し「いつまでも支払わないというわけではない。裁判も上告となったのでもう少し行方を見てからにしたい・・・」との意思を伝える。
男性は気まじめに聞いて返事も返してくれるけれど、NHKの不祥事や番組改ざんについては全く知らない。

ひたすら低姿勢で「はぁ、そうですか。でも皆様にご協力をお願いしていますので、どうかよろしくお願いします」と繰り返すばかり・・・。

NHKのような巨大組織には強気でも、実はこのようなまじめなおじさんには弱い。
「せっかく来てくれているのに払わなくてゴメンナサイ」と申し訳なくなるし、「これって本当に抗議につながるのかなぁ。」と弱気も出てくる・・・。

民放と比較にならないくらい良質の番組があるし、実際に視聴もしている。支払った方がよっぽど気が楽なのだけど・・・でも、やっぱりもう少し「不払い」。

受信料の支払いを義務化する放送法改定案が国会に提出されるよう。
不払いに対しては確かに不適切、という気持ちもあるのだけれど、なんで今の時期にこのやり方で義務化?との疑問は強い。

公共放送として自主、独立に基づいて良質な番組を提供してくれるのなら、催促は受けずとも受信料は納める。経済界の干渉を受けず、CMも入れない為にお金は必要だろうし。
でも、総務省の拉致問題の放送命令に続いて今度は放送法改定案。
これでは政府との関係はますますホットに思える。
何より政府からの独立性を貫いてほしい、という抗議なのだけれど・・・。

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2007年2月 6日 (火)

国際FGMゼロ・トレランス・デー

2月6日は「国際FGMゼロ・トレランス・デー」。
それは「FGMは絶対に許さない」決意を表明する日、まだまだ知名度は低い。
私も昨年に知ったところ。

FGMとはFemale Genital Mutilation(女性性器切除)の頭文字を取った略語で、女性外性器の一部あるいは全部の切除、時には切除してから外性器を縫合してしまう慣習のこと。
アフリカを中心に様々な民族の伝統的な通過儀礼として、2000年以上も続いていると言われている。
FGMを支援する女たちの会より)

以前には[アフリカ地域では女性の「割礼」がまだ行われている]といった漠然とした知識しかなく、改めて考えたこともなかった。
昨年に『母親たちの村』ウスマン・センベーヌ監督の映画を鑑賞して、その実状に衝撃を受け、恐怖、怒り、憎しみ、悲しみで心と身体が震えた。
もっとも映画自体は具体的にFGMをイメージさせるシーンは少なく、全体的に見応えのある佳作。

その長く続けられている慣習の背景には「男性優位」に基づいた社会があるのだろう。
でもそれを受容し、泣きわめく我が子を押さえつける(麻酔や医療措置、医療器具、薬もない)のは母親、施術するのも女性。
かつて自身が施術を受け、痛みや不具合に苦しみ続けながらも、(幸せな)結婚の絶対条件として娘へと受け継がせていく・・・。

もし父親が押さえつける役であるなら、この血みどろの慣習は続かなかったでのは?とふと思う。
女に備わっている出産に耐えられる精神の強さが、恐怖で錯乱する我が娘をなお押さえつける強さにつながっているのだろうか・・・?

現在でも毎年200万もの少女が施術を受けているという。
子どもに為されるこれほど残酷な「拷問」を知らない。
命を胎内に宿し、育み、産み出す祝福された性である女性をこれほど踏みにじる所業を知らない。
また、そのような慣習を女性たちが積極的に支えている事実に、深い「女」の苦しみをも思う。

どうかこの恐ろしいFGMが一件でも減るよう、一日でも早く撲滅されますよう。
いや、そうではなく「自分は絶対にこれを許さない」と表明する。

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2007年2月 5日 (月)

『それでもボクはやってない』―散りばめられた良心

2時間半という長丁場に、ほんの少しも中だるみがない。始まりから引き込まれ、最後まで画面にくぎづけだった。
人が何かを創り上げることのすごさを改めて思う。周防正行監督に敬服。

混雑した車内で15歳の中学生に痴漢だと訴えられた青年の、取調べ、起訴、数回にわたる公判、そして判決が描かれる。
青年(金子徹平)役の加瀬亮がとてもうまい。(『硫黄島からの手紙』での元憲兵の役も良かった!)全く「演じている」ことを感じさせない。ごく身近な痴漢行為を取り上げていることも相まって、画面越しにフィクションを観ているというより、リアルな世界で自分のま近に起こっていることのような感覚に陥る。

昨夜のニュースでは、福島県で「30歳男性『落書き』誤認逮捕、9日間拘束」というものがあった。
1月に富山県警が発表した、「強姦と強姦未遂で逮捕、実刑判決が確定した男性は無実」も記憶に新しい。

なぜこうした誤認逮捕や無実であるにもかかわらず罪を認める(自白)、さらには有罪判決といったことが起きるのか、その構造的しくみ、具体的な状況がこの映画で実によくわかる。

かねてより「人が人を裁けるものだろうか」ということに根本的な疑問があったけれど、「そうか、やはり裁判というのは『人』を裁くのではなく専門家が証言と資料に基づいて、ただ「懸案事項」にけりをつけていくことなのだ」と妙な納得もさせてくれた。

青年は痴漢で現行犯逮捕される。警察は「認めさせる」ことに焦点をあてて取り調べる。「認めて示談ですませば社会に知られることはない」などの説得も執拗に行う。
否認を続けることで警察と検察の心証を害して起訴される。
裁判で「無罪」判決を出すということは、警察と検察のまちがいを認め、その威信を傷つけるということ。
独立性があるはずの「司法」も国家権力機構のひとつとして、しっかりと組み込まれている。
結果として出される判決は、明らかな「無罪」の確証がない限り警察や検察の判断を引き継ぐ。

寒々とした実体を見てしまうのだけれど、それらに立ち向かう幾つもの正義や愛、友情、良心、連帯なども描かれている。

あえて報酬の少ない刑事事件で弁護する元裁判官の弁護士。
女性という立場ゆえ痴漢犯罪に感情的なものをもちながらも、偏見を削ぎ落とし事実と被告人となった「人」を見つめていく新人弁護士。
ごく普通の「おばさん」である青年の母の、子を思う愛に裏付けられたいちずな行動。
青年と母親を支える友人の明るく前向きな姿勢。
同じ冤罪の立場で具体的な支援と連帯でつながる人たち。
「この人は痴漢ではない」と証言する目撃者の女性・・・。

最後の判決場面は、娯楽映画ならば違った展開になっていただろうけど、この映画ではこの判決しかない。

もし実際に自分(の夫)に同じ事が起きたなら「(裁判になっても無罪は勝ち取れない)認めたなら世間に知られない内に釈放だ」のことばにどれほどか心が揺れることだろう。
実際に、たとえ無罪になっても「痴漢をした人」という風評はなかなか消えそうもない。容疑と長期にわたる拘留で職を失うかもしれない・・・。

でも「やっていない」ものは「やっていない」。
その主張を支える、良心に基づいた立場にいたい。
映画でも「がんばれ徹平!私も応援するよ」とリアルに思ってしまっていた・・・。

だけど、この映画では「青年は無実」と知っての感情移入であったけれど、その前提がなければ・・・?
もし自分が裁判員であれば、被害者である15歳の少女の涙をこらえた懸命な証言を聞けば、青年を憎む感情が湧き上がってはこないだろうか?判断を誤らないだろうか?
2009年に実施される裁判員制度の対象は殺人などの重大事件だけど、本質は同じ。
被告、原告やその家族の一生に関わることに向かい合う覚悟など、できるものだろうか。

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2007年2月 3日 (土)

福はどこから?―巻きずし作り

いつ頃から節分の日に巻きずしを食べ出したのだろう?
子どもの頃の節分で覚えているのは、豆まきと年の数の豆を食べたこと、玄関にひいらぎを飾りいわしを食べたこと、ぐらいかな。

巻きずしは晴れの日のごちそうだった。小学校の運動会の時は毎年、父が巻いてくれてお昼に家族いっしょに食べた。

今私が節分の日に巻きずしを巻くのは、「恵方かぶり」の慣わしにのっとっているわけではない。だいたい、それって「慣わし」という感じがしないし・・・。
父がしてくれたことを、私も子どもたちにしてやりたいけど普段は忘れがち、でも節分が近づくといやでも「ああ、巻き寿司作ろう」って、思い出させてくれる。
巻き寿司

今年の具は、高野豆腐、しいたけ、かんぴょう、卵焼き、三つ葉、鰻、かに身、でんぶ。
ご飯は3合(3人で8本分)。
これくらいの具だったら、通常の夕食の調理時間と比べて特に長くかかるということはない。
子どもたちが小さい時はいつもいっしょに巻いたけど、ワイワイとそれは楽しい時間。
具の味つけが少しくらい出来悪くても、ふんわりと巻けていなくても、自分たちで作ったものなら格別の味わい。

知り合いの1人は、きのうは徹夜。工場で巻き寿司用に3トンの米を炊き上げる手伝いをしたとのこと。洗米、炊飯、釜の洗浄などすべて自動で3分毎に次々と炊き上がるらしい。
もし「神様」がどこかで巻き寿司に「福」を吹き込んでくれるとしたら、この工場での炊飯の時はちょっと無理かもしれない・・・。

私が小さい頃に食べた巻き寿司に「福」を巻き込んでくれたのは父。
おかげで私は毎年お寿司を巻いて、家族とのおいしく楽しいひと時(これこそ私の「福」の内のひとつ)がもう何年間も続いている。

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