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2007年4月29日 (日)

元気の元

ここしばらくはかなりハードな勤務。
昨夜も仕事が終わればぐったり。
とはいえ夫が家で夕食をとる土曜日なので、遅い時間ながらあれこれと食事作り。
これまた遅い時間に帰宅した夫と二人で食べ始めるが、どうやらそこで元気は尽き果てたよう。
座っておられないくらいの疲労がどっと押し寄せてきて食事半ばで床にもぐりこんでしまった・・・。
何時間くらい眠ったのだろうか。
ふと目をさますと夫が枕元に座り見下ろしている。
「疲れてるねんなぁ~。そばにきたのも気づかずにずっと眠ってたよ」と言いながら、子どもにするように頭をそっと2、3回なぜてくれた。

年を重ねるにつれ身体の疲弊はごまかしようもないけれど、心はくたびれ果ててしまうことはない。
いつもどこかで誰かのやさしさを感じて立ち直ることができている。
特に、共に暮らすパートナーである夫の穏やかなやさしさに支えられた場面は数え切れない。

さて、とはいえ「気持ち」だけでは元気になれない、というのも確か。
ということできょうはちょっと豪華な外食。日曜日は仕事終わりが少し早いので時間も気持ちも余裕がある。
運動不足解消為のウオーキングも兼ねて、「知る人ぞ知る」とてもおいしい地元の川魚料理の店へ向かう。
1年に1度くらいしか行かないけれど、20年くらい前に初めて食べた時の満足感を裏切られたことはない。
鰻定食
鰻定食は、まったく泥臭さを感じさせない鰻の蒲焼に鯉の洗い、上品な味に仕立てられた肝吸いとご飯、香の物。素材から選んだ手抜きのないいかにもプロの味わい。
(それでいて価格は抑えてある)

すっかり胃袋を満足させて(身体の健康はまず胃袋から!)店を後にする。
今や「おじいちゃん」のご年齢になった店主(調理をされている人)は「お気をつけて」と最後まで見送ってくださる。
(自分の仕事でも戒めていることだけど、「お疲れさま」などと声をかける時は相手の目を見て、心からの言葉を伝えてこそ、だと思う)

絶品の腕をもつ「へんこな(いわゆる職人気質といわれるもの?)」調理人も嫌いではないものの、ちょっと疲れた時にはおいしい料理とやさしい笑顔は何よりごちそう。
(やさしい人が作るからやさしい味がするのかな?)

今度行くのはまた1年後くらいかもしれない。どうぞ川魚料理のおじいちゃん、お元気で末永くお店を続けてくださいますように・・・。

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2007年4月25日 (水)

久しぶりの常備菜作り

10数年も子どもたちの為にお弁当作りをしてきたのに、今や自分のお昼ごはんは毎日外食。夜のご飯も適当にすませてしまうことが多い。
自分の為だけに台所に立つ意欲が湧いてこないことが大きな原因なのだけれど、気がつけば既にそんな食生活が2ヶ月。
「食」が身体と心の健康を大きく支えてくれることは十分承知のはず。
取り返しのつかない心身の不健康に陥らないためにも、食生活の見直しは最重要事項か・・・。

常備菜
というわけできょうの休日の一コマは常備菜作り。
とりあえず(かつての)定番、黒豆煮、割干し大根、おなます、野菜の五目味噌つくだ煮といったところ。
さっそく今夜の自分のご飯にいただく。
黒豆は甘すぎないし、歯ごたえを残した味噌味の五目野菜もかみしめるほどにおいしい。冷奴、土鍋で炊いた雑穀入りご飯の取り合わせも自分好みで、「なんで連日外食を続けることができていたのだろう?」などと思えてしまうほどの満足感。
よし、明日からは簡単なものでもいいからお弁当をもっていこう、という決意までしてしまった・・・。

新しく就いた仕事を納得できる内容にするには1日に25時間勉強してもまだ追いつかない気がしてしまうけれど、ここらで焦る気持ちにちょっと歯止め。
今の時間を丁寧に生きていくことこそ一番大切なのだから、と言い聞かせて。

走り抜けるような日々を、ちょっと立ち止まらせ息を整えさせてくれた休日。
あれもこれもと盛りだくさんにしていた予定はほとんどこなせなかったけれど、今日をきっかけに明日からはまたちょっと違う日々を始めることができそう。

画像の左は冷蔵庫に常備している昆布だし。
といっても生協の店でもらってくるおいしい水に昆布を1片入れておくだけ。
いつもだし汁があるのはとても重宝。
この昆布だしのまま使ったり、かつおを加えたりしている。

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2007年4月23日 (月)

今日この頃

心にとまることはいろいろあるのに、じっくり思いにふける時間がない。文字にしようと思っても言葉が出てこない・・・。
そりゃそうだ、毎夜夢にでてくるのがWORDの検定用問題を解いている場面なのだから・・・。
WORDの検定対策勉強をされた方はご存知だろうけど、通常の文書作成では使わない機能が次々と出てくる。
(受験時代を終えて大人になってからも、「受験向け勉強」をしている人がいっぱいいることを改めて知った)
この種の問題は独特の傾向があり、教える側にとっても何百という問題を一通りこなしておかないと対応できない。
というわけで、ひたすらインストラクションの間に問題を解き続けている・・・。

そんな“WORD漬け”の頭と心にも昨日の高知県東洋町の選挙結果はとてもうれしく感じた。原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場誘致に関する是非を問うた出直し町長選。
もっとも忙しさにかまけて具体的なことをほとんど知らずに、ただ町民の判断を祈るような気持ちで待っていた。

原発に頼らないエネルギーを、と思いながらも現実は電力をふんだんに使う「便利で快適」な生活にどっぷりつかっている。関西電力では既に原発による供給は50%に近いらしい。
原発がある限り「高レベル」と言われるくらい莫大な量の放射能を含む「ゴミ」は大量に出続けるし「最終処分」する地も必要となる。
それでも、東洋町に高レベル放射性廃棄物の最終処分場になってほしくはなかった。
かけがえのないふるさとを放射能で汚してまで、「便利で快適」な生活を送る自分たちの尻拭いのようなことをしてもらうようでいたたまれない。

とはいえ私の心配などよけいだったよう、町民が下した判断はいかにも明確。
「町に核のゴミは受け入れない」というものだった。
(それでも対立せざるを得なかった小さな町で共に暮らす町民たちの苦悩は計り知れないだろうし、できてしまったしこりもすぐに氷解するとは思えない・・・)

とりあえず、やれやれとその結果に胸をなでおろしたものの、ではその「放射能のゴミ」を自分の町で受け入れる気があるのか?と言えば、それもはっきりNo!
わが町に処分場誘致の話などが起きれば何をおいてでも反対運動に参加する。
もちろん青森県六ケ所村や原発のある地で保管しておいてほしいという気持ちもない。

結局「最終処分場」に適当な場所などないのだろう。
それならまず「便利で快適」な自分の生活を見直すしかないということになる。
もちろん国には、大きな危険をはらんでいる上に先行きが見えない原発に頼らないエネルギー政策に真剣に取り組んでもらいたい。

今はちょっと忙しすぎるとはいえ、平凡に過ぎる日常は限りなく愛しい。
原発や高レベル放射性廃棄物はその日常を根底から覆す存在のように感じて、怖い。

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2007年4月17日 (火)

「肩たたき」今むかし

町に出たついでに、目的があってあるビルを目指した。

そこの地下2階に今はやりの「リラクゼーション・マッサージルーム」があり、はやっている。開いた入り口からお揃いの半そでポロシャツを着たたくさんの従業員と客が見える。
だいたい1時間あたりで6000円くらいになる料金(15分刻みくらい)。
(おそらくパート従業員である)マッサージをする人の時給はいくらくらいなのだろうか・・・?などと思いながらそこは素通り。

5年に1回くらい?特別な日に温泉入浴後、マッサージ師にほぐしてもらう。当たり前だけどプロの腕前で実に気持ちがいい。でも「手軽だし気持ちがいいだろうなぁ」とは思いつつ「リラクゼーション・マッサージルーム」には足が向かない。

子どもが小さい頃よく肩たたきをしてくれた。母の日に「肩たたき券」をもらったこともある。小さな柔らかい手ではこりは解消されなくても、その気持ちがうれしいせいか症状は改善されたように思えたものだ。
時に夫もしてくれるし、自分で道具を使って「トントン」とほぐすこともする。

私の中では、「肩こり」も「肩たたき、肩もみ」もこうした日常の風景の中にある。
その「日常の風景」にお金を支払って「見知らぬ他人」に施される「リラクゼーション・マッサージルーム」はどうも気持ちにそぐわない。

とはいうものの現在の肩こりは相当ひどい。パソコンのキーボードばかりたたいているし、このところストレッチや運動もまったくしていない。
というわけで・・・実はお目当ては「コインマッサージ」。
「マッサージチェアー」が置かれているフロアーがあり、30分もすれば実に気持ちが良いと友が薦めてくれた。
(もちろん、この「日常の風景」に入ってくるのが「機械」ならばOK、というわけでもないのだけれど・・・。)

何はともあれ30分間、ほぼ全身に機械によるマッサージを受けて、身体のこりは少しは解消されたように思う。
自分の「心」に満ち足りた感情らしきものが何もないのは、相手が機械だから当然か。

それにしても「リラクゼーション・マッサージルーム」や「マッサージチェアー」は便利だけれど、それに頼ってしまう暮らしって貧しいなぁ・・・。

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2007年4月15日 (日)

今の仕事が好きだから

職場に入るときはいつも過度の緊張とストレスがある。
インストラクターという仕事そのものは自分にあっているとも思うしやりがいもある。
もっとも向こう見ずに飛び込んではみたものの、今ではそれが「専門職」であることも自分にはキャリアも実力もないことは十分思い知らされている。
(かなり知力が衰えている)今からそれを積み重ねていくことの覚悟もある。
ところが時としてその相当の「覚悟」を超えた職務命令が出る。
「過度の緊張とストレス」はここからくる。

教室で教えるソフトはワードやエクセルを始め20種を越える。さらにたとえばワードであっても「検定試験対策」となれば授業の内容は正に試験向け、通常使わない操作がふんだんに盛り込まれている。
できるだけ自主学習を進めているものの、それだけの質と量をこなすにはまだまだ時間が不足。

きょうは、私がまったく学習でまだ手をつけることができていないコースのインストラクションをするように急言われた。(基本はマンツーマンスタイル)その生徒さんのところに行くものの、テキストも見たことがないし授業の進め方もまったくわからない。
ビジネス文書に関する検定用のコースで生徒さんは高校生。
真剣に将来を見据えて習いに来ているのだろう。
時間も短かったので「お茶をにごす」ような授業で済ませたものの、自分としてはこのままで済ますことはできない。
すぐに辣腕の経営者に話しをしに行った。
経営者は切れ者で厳しく、どの従業員も経営者の意向にすべて従っている。
それなのに従順で素直そのもの思われている(私は「おかしい」と感じないことにはきわめて素直に従える)新人が「もの申した」ので他の従業員はびっくり、職場に緊張が走った。

言いたかったのは決して「文句」ではない。
結果的に生徒さんに対して無責任なこと(生徒さんが若い子であればなおさら私は大人として実にはずかしい)になるような授業に今後もインストラクションに入らなければならないのなら自分にはこの仕事はできない、ということを冷静に伝えた。
今まで何回か転職してきたけれど、どの仕事に対しても無責任であったことはない、と自負している。

キャリアも実力もないのはとても残念だけど、すべてのコースにおいてインストラクションできる力がないのは事実。
それでもできるだけ時間をとっている自主学習は順次結果としてでてきており、入ることのできるコースも増えてきてはいる。

経営者の方針とあくまで不一致をみるなら退職もしかたなし、の心つもりであったが意外にも(取りあえず)主張はすべて受け入れられた。
経営者のめったに見られない「譲歩」も周りを驚かせた。
今後は私が学習の成果をこまめに報告し、その進み具合に準じて担当するコースを増やしていくようにするとのこと。

実のところ、実際にどのように展開していくかは明日以降になってみないとわからない。
切れ者の経営者のこと、何がしの考えがあるに違いない。
とはいえ、自分としては「絶対に譲れないもの」を譲ることなく職場にとどまることができた。
ただ主張が受け入れられただけに、(スキルが劣る)自分の方にもさらに努力が必要という気持ちが強い。
でもそれはまぁ「意気込み」といったようなもの、自信のないコースに入らなければならない可能性があった時の「過度の緊張とストレス」が少しでも軽減されるのなら、できるだけの努力は買ってでもしたい思い。

と言いながら、テキストに向かわずブログに向かっている・・・ちゃんと息抜きもできているということか。

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2007年4月13日 (金)

若い子たちの「自分が悪い」という考え方

朝から晩まで職場に詰めている日常だけれど、これは自分の意思。拘束時間の実質は8時間にも満たない。インストラクターとしてのキャリアも実力もないので、職場で自主的に学習しているだけ。
(もっとも飛び飛びの時間にシフトが入り、最終が遅い時間帯になることが多いので早い帰宅はなかなか望めない)

もし業務命令で長時間拘束が続いたなら私は黙って従うことはしないと思う。
体力ももたないだろうしストレスも相当なものになるからだけど、何より「長時間拘束はおかしい」という認識がある。
被雇用者として職務全うに努力する義務を感じているのと同じように、自ずと雇用者にも義務を果たすことを求めている。

ところが長男にそうした考え方は乏しい。
やっと社会人2年目に入ったばかりだけれど、早朝から深夜までの勤務が続いている。
時に不平を口にするものの基本的には「自分が仕事に対する要領が悪いから時間がかかる」と考えている。

このように、長男によらず若い子たちが「自分が悪い」という考え方をすることがとても気になる。
組織や仕組みを見ようとせず、個人や自分にものごとの原因をあてはめてしまう。
結果的に自分、あるいは他の人を追い込んでしまう。

私も若い頃から自分自身や置かれている状況に満足できず自分を責めることも多かったけれど、その原因が(自分も含めて)個人に起因することばかりではないことはよく知っていた。
だから社会の仕組みや政治にも無関心ではおられなかった。

たとえば真面目に一生懸命働いて、かろうじて生活できる賃金はあっても睡眠や食事時間が十分取れない。余暇も楽しめず仕事に関するスキルアップもできない。
それが、努力が足りないせいだとか、生きていく為にはしかたがないから頑張るしかないなどとは私にはとても思えない。

そんな状況に置かれている若い人たちが「こんな社会はまちがっている!」と考えない、大きな声を上げない、変えていこうとしないのはなぜなのだろう?

Spring_1
画像は、ほったらかしでも咲いてくれた花壇の花たち。

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2007年4月11日 (水)

高校の現国教科書を楽しむ

この春高校を卒業した子の現代国語教科書を何気なく手にとって、そのおもしろさにはまっている。
「随想」「小説」「詩歌」「評論」などの分野に分けられ作品が網羅されている。教科書に載るだけあって、さすがに作者の名前は聞き覚えのある人ばかり。ただ作品となると明確な記憶が残るものは少ない。
おぼろに残るイメージから興味を引くものから順に読んでいる。
内容のおもしろさはもちろん、子どもが引いたたくさんの下線や書き込みも合わせて楽しんでいる。
自分もそうであったように、高校生たちはまずは受験対策の対象として教科書の内容を捉えているのだろう。
下線や書き込みは、心に残った部分ではなく試験のポイント部分であることは少し残念だけど、それにしても17や18歳という多感な青年期の子たちがどのようにさまざまな名文を受け止めたのだろうか、などと思いが巡るのもまた楽しい。

さて、一番に目をつけたのが大岡昇平氏の『俘虜記』。これは前後に「あらすじ」をつけた部分記載。
読みそびれていただけにあらすじ共々じっくり読ませてもらった。
でも、ここに下線や書き込みが何もない。どうやら授業では飛ばしたようす。
「うーん、不満」、とはいえ載っているのだから読んだ子どもたちも多いことだろう。

次は丸山真男氏の『「である」ことと「する」こと』。タイミング良く出会えたと思えた文章なので、長くなるけれど抜粋して書きとどめておきたい。

「・・・日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、・・・つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。」
「・・・私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由であり得るということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって厄介なしろ物だといえましょう。」・・・

1960年代に書かれた著書のようだけれど、今まさにその「国民が主権者であることの危機、自由であることの危機」は迫りつつあるのかもしれない。

ところで、この丸山真男氏の評論も授業では飛ばされているよう。
もったいないなぁ・・・。

手にとってもずっしりと重いこの教科書、しばらくは愛読書となりそう。

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2007年4月 9日 (月)

そしてまた一人、巣立っていった。

昨日は少し年の離れた末っ子の引越し。
他県での大学生活をひとり暮らしで過ごす。
経済的な意味では自立ではないけれど、親としては「一人立ちさせた」という感覚が強い。
生活力を感じさせる子だからかもしれない。
引越しの前の晩には、忙しく調理もままならない母親の為に二つの鍋いっぱいに切干大根とひじきを炊いてくれていた。

我が子であっても、「子ども」というまか不思議で輝くような存在自体「授かりもの」という感覚が強い。
時に自分の命より愛しいものだけれど、決して自分のものではない。

子どもを巣立たせるにあたっては、どこか「無事に育ちましたのでお返しします」という心もちがある。
まずは大人として任を果たしたことの安堵。
次には、目の前から存在が消えてしまうことの寂しさ・・・。

いつかその日がやってくるのはわかっていたけれど、それはアッという間。夫と二人きりの生活になった・・・。

さてさて、かといって沈んでいるわけにはいかない。
この春、新しい生活を始める若者たちみんなに熱いエールを送ろう。

そして「子育て」という大役に一区切りつけた自分にも小さなエールを送ってやろう。

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2007年4月 8日 (日)

『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』

中国・山西省で、旧日本軍の性暴力を受けた女性たちを取り上げたドキュメンタリー映画「ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち」班忠義監督を、数日前鑑賞した。

ガイサンシー まだ幼さが残る年齢で踏みにじられ、当たり前の人として女性として生きることができない心と身体のまま年を重ねていく・・・。
見える傷、そして見えない身体の奥深いところの傷はいつまでもいつまでも苦しめ続ける・・・。
その後の差別や貧困が尚いっそう心も身体も蝕んでいく。

ガイサンシー(山西省一の美人の意味)と呼ばれた女性は、「医者にみせるお金もない、薬もかえない。苦しさに耐えられない、死ぬほかない」と最後に自分で死を選ぶ。
老婆となったその身体になお子宮からの出血が続いていたという。

「女の子」と言ってもいい年齢の子が無理やり連れていかれレイプされる、繰り返し繰り返し・・・。
今そのようなことがあればマスコミは一斉に取り上げ、世間も「絶対に許せない犯罪」としての反応をみせる。当然犯人は「極悪非道」なる者、捕らえられ裁かれる。

ではなぜ、同じ目にあったガイサンシーや同じ境遇にあった「姉妹」たちは何十年も捨て置かれてきたのだろう?
その「極悪非道」なる者は日本人なのだけれど、捕らえられも裁かれもしなかったのはなぜだろう?

もはや老いて故郷でひっそり生きる彼女たちに、日本という国や日本人ができることは何もないのかもしれない・・・とさえ思わせるほど映像を通して感じる彼女たちの心と身体に刻み込まれたもの、生きてきた道は険しい。

その険しさと悲しさに自分も打ちひしがれたようになり、静かに涙が流れ落ちるばかり。

でもやっぱり、観ている自分もただ打ちひしがれて下を向いていてはいけないと思う。
長年閉じ込めてきた思いを堰を切ったようにカメラに向かって赤裸々に語るその姿から目をそらさないでおこう。
「ガイサンシーとその姉妹たち」は確かに存在していることを忘れないでおこう。
彼女たちが奪われたものは余りに大きく、亡くなってしまった人もおられるけれど「奪われっぱなし」「奪いっぱなし」を認めることは絶対にしたくない。

それにしても・・・自分が女性であることすらおぞましくなる「性暴力」の卑劣さ。
その性暴力が「当たり前」のこととして許される(もちろん加害者側にとってのことだけれど)「戦時下」という状況。
それらをもう少し知るために、戦時下の一般市民をリアルに描いた優れたノンフィクションと評価されている『ベルリン陥落1945』アントニー・ビーヴァー著を読み始めることにする。(買ってはいたがなかなか手をつけることができずにいた)。
毎日1ページだけでも読み続けたい。

※この映画は大阪九条の「シネ・ヌーヴォX」で観た。
昨年8月に「シネ・ヌーヴォ」の2階に新設されたデジタル上映のみの30席のビデオシアター。
「シネ・ヌーヴォ」は十三の「第七芸術劇場」と並んでよく足を運ぶ。これらの劇場があるからこそ大阪でも観ることができた貴重な映画がどれほどあることか。
「シネ・ヌーヴォX」もこじんまりとして落ち着いた雰囲気。今後もまたここで良質の映画を観ることができそうでうれしい。

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2007年4月 4日 (水)

久しぶりの食事作り

pianocraftさんやKATEKさんのエントリーに触発されたとはいえ、「食事作り」に気持ちが向いたのは新しい仕事に少しは慣れたということだろう。

今日の休日は映画鑑賞、パソコン関連書籍を調べるための本屋めぐり・・・に加えて「夕食作り」も久しぶりに予定に入れておいた。

この1ヶ月、ほとんど台所に立たなかった私に代わって、毎日メニューに工夫をこらしおいしい夕食を提供してくれている次男もいよいよ4日後から一人暮らし。
その後、自分の為だけに果たして食事を作る意欲が湧くかどうかは疑問だけれど、とりあえず今夜はこの次男においしいものを食べさせてやろう。

というわけでメニューは、
・ 鯛のポテトチーズ焼き、アスパラ添え
・ 牛モモステーキのきのこソース
・ 春キャベツの酢の物
・ (きょう一日、とても寒かったので)茶碗蒸し
・ 土鍋で炊いた雑穀入りのご飯

おかず3品
ご飯と茶碗蒸し
何十年もご飯作りをしてきたのに1月ブランクがあるだけで、冷蔵庫の中身を確認しながらこの5品を思いつくのに随分時間がかかった。
おまけに、どこか味付けも手順もぎこちなく、茶碗蒸しはスが入るというおまけつき・・・。とはいえ、久しぶりに作る楽しみ、「喜んで食べているのを見る喜び」は味あわせてもらった。

「おいしいご飯がずーっと食べられること、好きなやり方で生きていける自由、そんな当たり前の日常がとても重要と思う。」
これは、pianocraftさんがご自分のブログに書かれていたこと。
私もまるきり同調。
自分の「当たり前の日常」に感謝しつつ、人が人らしく生きていける社会であってほしい、と願う。

今日観た映画は『ガイサンシーとその姉妹たち』。
同じ女性でありながら、彼女たちに「当たり前の日常」はなかった。
日をおかずにこの映画の感想も書き記したい。

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