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2007年5月28日 (月)

思った以上にきれい! 赤いiPod nano

「買い物」は嫌いだしモノへの執着は薄い方だと思うけど、時にどうしても欲しいものが現れる。
今回も買うべきか見送るべきかそれなりに葛藤はしたものの、自分に甘い本性。買ってしまった・・・。
それは真っ赤なiPod nano (PRODUCT) RED。ちょうど休日の今日に宅配で送られてきた。
購入金額の一部が直接「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付されるらしいけどそれは購入動機に全く関係なし。
色に惹かれた。

iPodnano
先月、一人暮らしで学生生活を始めようとする息子が家を出るに当たって、時計をプレゼントしてくれた。おもいがけず色は赤。
赤を身につけることはまずないのに、なぜ息子は母に赤を?
(しかも秒針の先が丸くなっていてかわいい。)
自分ではまず選択しない色とデザインながら、身に着けてみると案外しっくりくる。さらに日が経つにつれて「赤」の美しさに魅入られてきた・・・。

そんな時に見つけてしまったのが赤いiPod nano。
iPod mini(これはグリーン)を既に所有しているのだから贅沢、と自分に言い聞かせてみたものの「時計とお揃いで身に着けたい」という欲望は静まらない。

というわけで曲も収められ既にわが手にある。
合わせてnanoを装着し首からかけることのできるLanyardヘッドフォンも購入。
miniも自転車に乗るときに利用することがほとんどで、ポケットのない服の時は使いにくくコードがからむことも多かった。
真っ赤なnanoをペンダントみたいにぶら下げるのはちょっと気恥ずかしいところもあるけど、試してみると使い心地は非常に快適。
今までもminiで仕事の行き帰りに音楽が聴けることで随分気持ちがほぐれていた。
明日からは真っ赤な色のアイテム2つでさらに心軽くなりそう。
そう感じられると「贅沢ではなかったかも・・・」とちょっと思えてきた。

ぐみ
もうひとつ赤いお話し。
我が家にびっくりぐみの実がなった。
画像だけ見たら、まるで大きな庭にすっくと立った立派な木のよう・・・、でもないかな?
実際は小さな花壇、去年植えた50センチ余りの木が実りをみせて、日に日に濃い赤に色づいてきた。
「びっくりぐみ」のわりには小粒だけれどおいしさはさすが。
甘みが強く酸味と渋みがほとんどない。
といっても残念ながら日常においしいものをあふれさせているから、かつてに比べるとこの素朴な味わいの美しい実に対する愛着は薄くなっている。
見て楽しまれるだけでは、ぐみも「実のなり甲斐」が無いことだろう。

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2007年5月25日 (金)

老いの超え方

きょうのタイトルは吉本隆明著『老いの超え方』から借りた。
まだ半分くらししか進んでいないけれど読みながらいつも「ああいやだ、いやだ」と思う。「いや」なのは年をとることではなく、文脈にさらけ出された「老いた身体」に向き合うこと。
それでいて投げ出すことができず、また手にとっては続きを読んでいる。
若い日にこの人の著書に読みふけったというわけではないけれど、自分なりのイメージがあった人だけにその赤裸々に描かれた「老い」の実態を受け入れにくい。
吉本隆明氏自身は「老いを超えられた」のだろう、でも私はまだ「高齢」の老いは超えることはできない。

とはいえ最近「老い」の小さな山はひとつ越えた(ような気がする)。
「老い」について考え込むようになったのはパソコンのインストラクターとしてたくさんの生徒さんと接するようになってから。
生徒さんは老若男女さまざま。
理解力とパソコン操作能力などにおいて、個人差というものではなく若者と中高年の間に歴然とした差があることを毎日見せつけられている。
それは「若さは才能」ということだし、中高年になれば衰えがあるということ。

さて、私の職場はレッスン中も全体の目配りは欠かせないし、時間ごとの受付や終了のスタッフ仕事もかなりのテキパキさと正確さを要求される内容になっている。
少し慣れて要領も飲み込んできたとはいえ、納得できるような仕事振りではない。
遅々として進まないテキスト学習のこともあり、自分の見極めとして「衰えた今の年齢ではこの仕事をこなすのは無理」という結論を出した。

その結論とそこに至るまでの経過を経営者に告げたところ、慰留の為の熱心な説得が続いた。
経営者の主な言い分は「仕事は十分できているし、生徒さんの反応もとてもいいのに辞めるのはお互いにとってもったいない」ということ。

他者からの評価を聞きながら、思い至ったのは自分が余りに「衰え」を意識していたこと。
ハードな職場にあって、常に(もう少し)若かった頃と比べて今の自分を見ていたということ。
「若かったときはこれくらいのことは完璧にこなせただろうに、小さなミスを繰り返したり覚えが悪いのは衰えたからだ・・・」といったように。

10年ほど前、ママさんバスケットボールのチームに入った。
そこでまず言われたのは「若い頃はできた、というように考えたらあかんよ。若いときとおんなじようにはできないのが当たり前やし。
昔はできたのに今はできない、と思ったら落ち込むし無理もしてしまう。今の自分が楽しむことが大事やから」

「中高年」の老いの超え方はコレに尽きるのかもしれない。
若かった頃と比べず、年齢と経験を積み重ねてきた今の自分自身をみること。
まだできること、がんばれることはいっぱいある。(もちろん楽しむことも)
小さなミスは「しゃあない、しゃあない」と気にかけず、理解力や記憶力が乏しいのも「その割にはがんばってるやん」と受け入れよう。

もとより嫌いな仕事というわけではなく自分の能力に見切りをつけての撤退だった。
今一度、「今の自分」の力を信じてやろう、と思い直している。
今の自分がせいいっぱい頑張っているのに、まずは自分自身がそれを認めてやろう。

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2007年5月23日 (水)

「慰安婦」100人の証言―『Days Japan』より

『Days Japan』6月号が届いた。じっくり本を読むことのない日常だけど、このフォト誌はとても楽しみ。
月刊というのもいい。かつて『週刊金曜日』を定期購読していたけど、読み終えない内に次号が、さらに翌次号分が送られてくる。追われる気がするが読み切れない・・・、ということで止めてしまった・・・。

DaysJapan 今月号の特集は「慰安婦」100人の証言。
5ページにわたり元「慰安婦」の方たちの顔写真と証言がずらりと並ぶ。
名前と国名(韓国、北朝鮮、フィリピン、台湾、中国、インドネシア、東ティモール、日本、オランダ、マレーシア)の後にある80文字足らずの100の証言のひとつひとつが圧倒的な迫力で迫る。
これを誰が「なかったこと」と言える?
(おそらく日本の首相は本人にはもちろん、この顔写真と証言にさえまともに向かう勇気も誠実さもないのだろう)

その100の顔写真の中には「笑顔」のものが幾つもある。
この掲載の有り方がとてもいい。
「慰安婦」→悲惨→暗い顔 といったイメージを固定させるような構成になっていない。

既にたくさんの方が亡くなられている。
「それ」以来一度も笑顔を見せたことのない方もおられるかもしれない。
それでも人はフッと笑顔が浮かぶような暮らしがなければ、生き続けることはできないような気がする。
普通の暮らしをしようと懸命に生きてこられたのだろう。
深く皺の刻まれた顔のひとつひとつをゆっくり見ていると、「人が生きていく」こと自体が愛しく感じられる。

自分の国は未だこの老いた人たち一人一人を踏みにじり続けている。

特集では合わせて、「日本軍は中国で女性に何をしたか-ある日本兵の証言」と「『慰安婦』強制の公文書」の記事が載せられている。

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2007年5月22日 (火)

「豆」3種

おなじみになったあちこちのブログをのぞかせて頂く楽しみもなかなか果たせないくらい、ちょっとくたびれてきちゃったかな。
ここにきて仕事に関しての負担が心身共にずっしり。
原因のひとつは唯一の同期新人が辞めちゃったこと。
「学習していくことが多過ぎるし、プレッシャーとストレスで自分を失う・・・」と理由を話して、私一人残すことを?何度も謝ってくれた・・・。
驚きと寂しさ、そして「何だか先を越されちゃったなぁ~」とちょっぴりうらやましさも。
私より一回りも若い男性だったし、そこまで追い込まれていることにちっとも気がつかなかった。何も力になれなくて私の方こそ「ゴメンナサイ」・・・
とはいえ、彼と分担していたことのほとんどが私に降りかかってきている。
このままでは自分も彼と同じ選択(前向きな決断としての)をするかもしれない。

3mame
とりあえず元気付けるには「食」。
タイミングよく好物の「豆」三種が届いている。
まずは焼き?落花生。黒く焼き色がついているから直火で焼いているのかな?
甘く香ばしく止まらないおいしさ・・・。
冷たいビールと落花生でちょっと元気を盛り返したところで、えんどう豆の皮むきに取り掛かる。
これは昨夜に採れたてをどっさりいただいた。
迷わず夕食をえんどうご飯に。あとはさっとゆでて冷凍。

食後には取り寄せたフェアトレードによるコーヒー豆をゆっくり味わう。
コーヒー豆はもう十数年も同じ店の同じ銘柄のお気に入りばかりだったものを、思い切ってフェアトレード商品(ネットで購入)に切り替えた。
といってもおいしくなければ続かない。
「満足できる味わいですように」と念じながらハイチのコーヒーをたてた。
結果は○。
(以前までの豆は◎だったことは忘れよう・・・)

さてさておいしい「豆」づくしでリフレッシュのあとは、ちょっとブログにおじゃま。

定期的に読ませていただいているブログの書き手からは、共通して生きることへの謙虚さを感じている。
もちろんそれは「遠慮がちに生きている」ということではなく、「生」を与えられていることの感謝の念とまっとうしようとする真摯さのこと。
自分の「生」も大切、同じように人の「生」も大切にしていること。

ネットでつながることのできることの不思議さとありがたさは大いにありけれど、やっぱりえんどう豆をおすそ分けしたり、おいしいコーヒーを一緒にいただけない、のはちょっと残念・・・。

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2007年5月16日 (水)

拭き清める気持ち良さ

仕事はシフト制なので終了時間は日によってまちまち。でもいつの日も終わるとすぐ手にするのは雑巾2枚。水で絞ったものと乾いたもの。分担はあるものの毎日掃除する必要はなくて、これは自分の「楽しみ」。
パソコンもインストラクションも好きだけど、やはり仕事の締めくくりはしっかり「身体」を使いたい。
特にスクール入り口ドアの大きなガラスを拭くのが好き。
背伸びをして上の方まで手を伸ばし、あるいはしゃがみこんではリズム良く力を入れて拭き清める。
正に身体が働いていること、そして自分の手によって美しくなっていくことを実感できる。この「手応え」こそ充足感。
そして不思議なことに毎日自分の手で拭き込んでいると、次第にその「ドア」に愛着が湧いてくる。
人と人とのつながりを感じるように、人と「モノ」のつながりを感じるのはこんな時。
パソコンでも同じ。画面を見つめてキーボードからいくら入力しても、特に思いは湧くことはないのに、毎日そのディスプレイを拭き清めてやると何だか愛しくなってくる。(液晶ディスプレイは拭けないのが残念)

家でも拭き掃除はよくする。掃除機は嫌いで時々しか使わない。(うるさいし、かけ終わっても充足感がない)
雑巾をバケツでゆすいではギュッと絞り、這いずり回って床を拭く。これが実に気持ちいい。
洗濯も同じ。全自動は必需品ながら好んで手洗いもする。

パソコンを始め機械や道具に囲まれ便利で快適な生活をしていても、身体や手をしっかり使う気持ち良さや充足感が退化していないことがうれしい。

もっとも忙しすぎる職場では「掃除」を楽しむ余裕など誰一人ないよう。
勤務時間を終えてから掃除にいそしむ私の姿は「奇特な人」としか映っていないような・・・。

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2007年5月14日 (月)

憲法は変えたくない!

とうとう成立しちゃった・・・。国民投票法。
これからはさらに性根を入れて憲法のことを考えていく必要あり。
自分だけでも考えて、そして周りにも広げて。

今の新しい職場では、その「学習振り」でどうやら注目を浴びているらしい。(実力がないから焦っているだけなんだけど)
目新しくわかりやすいテキストも各種持ち込んでいるので、若い子ものぞきにきて話がはずむ。もちろんコピーは自由にとってもらっている。
パソコンの知識やスキルこそ彼、彼女らに及ばないけれど、豊富な人生経験?でそこそこ存在感もでてきたかな・・・。
実はこの調子で、タイミングをみながら憲法の話などもさらっとしてみたいなぁ、と目論んでいる。
「変える、変えない」より、憲法自体の意味合いや条文を知らないことがまずは問題。
ちゃんと読んだ人で「変えたい」って言う人を見たことがないし・・・。

この前の土曜日にテレビをつけると「ブロードキャスター」という番組をやっていて、ちょうど「お父さんのためのワイドショー講座」というのがあった。
その週、ワイドショーで長い時間放送されたテーマをランクづけで紹介している。ちょっと期待したけれど・・・ベスト10の中に国民投票法案や憲法に関するものがまったくなかったのは当たり前・・・?

じっくり日本国憲法そのものや関連本を読むのも大切だけど、何より憲法は身近なもの、という感覚があってほしい。
ニュースはもちろん、特集やワイドショーでも核心をきちんと押さえた上で、親しみやすい憲法関連番組がもっとあってもいい。

見たことはないけど、松本ヒロさんという人がパントマイムで風刺コント「憲法くん」というのを演じられていて好評とか。

「憲法九条を守ろうという市民が集まった九条の会は、六千もある。ぼくは全国の集会にひっぱりだこなんですよ。もうガッポガッポで、寄席の人からは”松本ヒロは九条を食い物にしている”といわれますが、戦争を食いものにするよりはいいでしょ・・・」
といった調子の一人芝居らしい。

う~ん、見たいなぁ・・・。

まぁ自分にはコントはちょっと無理だけど、職場とか自分の周りで憲法のことも話題にしてみよう。自分の考えの「押し付け」にならないよう、気をつけながら。

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2007年5月 9日 (水)

『Vas, vis et deviens』(約束の旅路)

先日、久しぶりに観た映画は『約束の旅路』2005年フランス ラデュ・ミヘイレアニュ監督。

*あらすじ(チラシより)*
家族を失い、母と2人、歩いてスーダンの難民キャンプにたどりついた9歳のエチオピア人少年。母は少年に命じた。生きのびるために、ユダヤ人と偽って、ひとりイスラエルへ脱出するようにと。母と別れ、故郷から遠く離れて、真実の名前を隠して生きる新しい地。そこで少年は愛情ゆたかな養父母に出会うが、別れた母とアフリカの大地への思いはおさえがたく、肌の色や宗教による壁、そしてユダヤ人だと偽りつづけることに激しく葛藤する。やがて彼は成長し恋も知るが、故郷アフリカの窮状を知り、医師を志してパリへ向かう・・・。
Photo_1

歴史や地理(他のことも)に詳しくない私にとって、この壮大なドラマは理解半ばでしかないとしても、知識に乏しい者の心にも十分に響いた。

女性は生命を生み出す神秘さを授かった存在であることはまちがいないけれど、同時にその命を守るための強さも授かっているのだろう。
この映画で何よりに迫ってくるのは、女の心、母の心の強さと潔さ。

その母は既に夫も他の子たちも失っていた。
もはや残った一人の子の命を守るのは、為すすべのない自分の腕でも宗教でもなく実際的な手段「ユダヤ人と偽ってイスラエルという未知の国へ脱出させる」ことのみ。

母は少年に告げる、「Vas, vis et deviens(行け、生きろ、生まれ変われ)」
(この言葉にたいそうインパクトがあるので邦題の『約束の旅路』がしっくりこない。)

幼子を亡くしたユダヤ人の母が少年を「我が子」として連れ出す。
この女性も「命を守る」強さを授けられた母、であった。

アフリカの大地でキリスト教徒して生を受けた少年は、宗教を偽り、名前も変わり、新しい環境で生きていく。

思春期を迎え、青年になってからも求めて得られない答え。
「自分は何者?なぜおかあさんは僕を行かせた?僕は何になればいい?」

黒人として受ける差別、自らのアイデンティティーにも苦しみ続ける彼を支える女たち。慈愛に満ちた養母、家族を捨て彼と生きることを選びとる白人女性。
主人公を始め魅力ある男性たちを配しながらも、圧倒的な存在感で女性が描かれている。

さらに物語にはたくさんのテーマが盛り込まれ、そのひとつひとつ重い。
映画はスーダンの難民キャンプから始まり、そこで終わる。20年ほども時は流れたろうが相変わらず難民はおりキャンプの環境は悪い。
そして宗教のこと、家族のこと、差別と偏見のこと、イスラエルとパレスチナのこと、・・・・

(「エチオピア」と聞いてイメージするもののひとつにBob Marleyがあるけれど、彼もファラーシャ(エチオピア系ユダヤ人)が集まるディスコでポスターとして登場していた。そういえば、青年期の主人公もどことなくBobを感じさせた・・・?)

エチオピアのユダヤ人をイスラエルに移送する「モーセ作戦」という史実から生まれた物語とのことだけれど、「モーセ作戦」はもとより「エチオピアのユダヤ人」も知らなかった私にも、とても見ごたえのある映画となった。
上映劇場も限られているようだけれど、機会のある方はどうぞご鑑賞を。

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2007年5月 6日 (日)

のんびりと過ごした連休

朝から静かな雨音が聞こえてきて、レースのカーテン越しに見える外の風景にはグレーがかかっている。
お出かけ予定の人には悪いけど、連休の締めにありがたい空模様。
ゆったりと流れる時間をさらに落ち着かせている。

待ち焦がれた4連休にやりたいことはいっぱいあった。
結局1冊の本さえ読めずに過ぎようとしているけど、ふだんは忙しい状況で、ひととき制約のない時の流れに身をおいたことで、「自分が何を大切と感じているか」に向き合えたような気がする。(おのずと自分の中にある優先順位順に動いたから)

今朝一番、穏やかに落ちる雨の下に家中の(といっても少ししかないけれど)観葉植物をしばし置いてやった。葉っぱにうっすらついたホコリを落としてやると緑が輝いた。
ずっとしてやりたいと思いながらできずにいたことのひとつ。

地方で一人暮らしをしている大学生の子が帰ってきていた。
2日半いただけだけど、こまめに家事を手伝い朝もきちんと起きてくる。
生活リズムの良い日常がうかがえる。
実際、授業もサークルも、始めたアルバイト(塾の講師)も楽しいとのこと。

若い子がいるだけで空間は活気を帯びる。若者が若者らしくあることに深い安堵感。これは決して我が子だから、というものではない。次世代に「安心」を感じることこそ、自分の世代が安らかに去りゆく(死んでいく)要因だとは以前から考えていた。
久しぶりに「若者」を身近に感じて、さらにその思いを確かにした。
とはいえ、現状は今の若者たちや取り巻く状況に「安心」と正反対な感情が湧くときも多い。自分(の世代)の役割はまだまだ残っているとも思う。

連休中の一大イベント?は夫の両親を招いたこと。
自分の親をさっさと亡くしたこともあって、「喜んでもらえることをできる内に」という思いは強い。
たいしたおもてなしはできなかったものの、よく飲みよく食べよくしゃべりとても楽しそうに過ごされた。
「嫁」という自覚は乏しいけれど、義父や義母のうれしそうなようすを見て「いい時間をもったなぁ・・・」と満足。
手土産にいただいたのは義母が丹精込めて庭に咲かせた真っ白なカラー。(画像のもの)
カラー

それから、汚れが気になっていた床も拭き込み、常備菜も幾品か作りおくことができたかな。

どっぷりと家庭、家族の心地よさにつかり心身とも弛緩させておられるのもあと少し。
明日からはまた緊張した時間が始まる。
その「明日」から逃げ出したい気持ちがないこともないけれど、「よし、がんばるぞ」との思いがちゃんとある自分に安心。
前向きな気持ちで取り組める仕事があることは、本来喜ばしいことのはずだもの。

時にゆったりと時に緊張をもって・・・、そのような平和な日常が何より愛しい。
世界中のどこに住む人でも営んでいる日常、それがすべて平和なものであってほしい・・・。

この1日だけ町に出たのは映画鑑賞の為、十三の第七芸術劇場へ。
観たのは『約束の旅路』。盛り込まれたテーマは幾つもありひとつひとつが重い。
これは近いうちに感想などエントリーしたい。

さて、皆様の連休はどんなごようすでしたでしょうか?

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2007年5月 1日 (火)

身近にいるプレカリアートたち

ある会社の正社員である若い友人と時々会う。
彼女はアルバイトから正社員に採用されて数ヶ月しか経っていないけれど「アルバイトに戻してもらおうかな~」と本気で考え込んでいる。
曰く「正社員とアルバイトの待遇は社会保険があるかないか、だけ。有給もボーナスもない。一方、仕事内容では正社員は本来業務以外のものがあまりに多い。」

「プレカリアート」という新しい言葉の認識は追いついてはいないようだけれど、実態は既に、[収入や就労のみならず生活条件全般に不安定さを強いられている人々]と定義される若いプレカリアートがあふれているよう。
我が家の長男もその一人。
正社員として真面目に一生懸命働いているものの、過酷な長時間勤務。仕事に振り回される日々でありながら将来の展望はまるで見えない。

今の若い人たちを取り巻く状況にため息をつくばかりだけれど、昨日読んだ日刊赤旗紙の一面にあった雨宮処凛さんへのインタビュー記事はたいそう興味深いものだった。
少し抜粋させていただく。

「・・・フリーターになりたくてなったんじゃないのに、貧乏でモノ扱いされて。正社員になれたらなれたで、うつ病になるぐらい長時間労働。しかもそれを自分の責任だと思って自分を責めて自殺してしまう。社会に対して怒ることすらできない、それすら奪われてるんです。
 まさに憲法25条の生存権の問題です。・・・競争第一で、生産性のないやつは生きている価値がない、というメッセージを社会全体が発してる。・・・」

以前のエントリーで「今の若い子たちが、『こんな社会はまちがっている!』と考えない、大きな声を上げない、変えていこうとしないのはなぜなのだろう?」と書いたことがある。
それは、雨宮さんが言うように「社会に対して怒ることすらできない、それすら奪われている」からなのだろう。
それでいて「奪われている」ことさえ気がつかない・・・。

自分たちの老後にも不安がある、でもそれ以上に若い人たちが希望や展望を感じられない社会であることがさらに深刻な不安。
ただ、雨宮さんもその一人だけど、傷つきながらも必死に生きて(何度も自殺未遂はあったようだけど)、体当たりで何かをつかんでいくのも若者。
「若者の力」も信じていたい。

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