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2007年6月27日 (水)

安全なものが食べたい

お昼ごはんは職場のすぐ近くの定食屋さん(どんどん増えているチェーン店)を利用することが多かった。肉類を積極的に食べることはないので、選ぶメニューは「揚げ出し豆腐定食」や「コロッケ定食」といったもの。メインの他にお味噌汁と煮物などがついている。

煮物には必ず青々とした菜の花が添えられている。その色が余りに鮮やかなことは気になっていたけど、ある日かすかに化学薬品の臭いを感じてから喉を通らなくなった。

食材購入の際は必ず産地を確認するし、国内産を基本としている。魚介類は天然であってほしいし、なるべく野菜は減農薬、有機栽培のものを選ぶ。
でも・・・外食で口にするものの素材は、出所や調理過程が一切不明。
一見、栄養バランスが整ったメニューに見えて、実は農薬まみれの輸入素材に加えて添加物まみれの可能性もある。
その判断の頼りどころは、親にまともなものを食べさせてもらって育った自分の味覚と嗅覚のみ。
その感覚を信じて、この定食屋は以後全く利用しなくなった。

今大騒動になっているいわゆる「偽装コロッケ」も消費者は味でその素材の正体を見破ることはできなかった。
家で作るコロッケは牛ミンチ100%でする場合が多いので、豚や鶏、内臓や鴨を入れたらどのような味になるのかは想像できない。
味は当然違ってくると思うのだけれど、牛ミンチと感じさせる為に何か添加物を加えたのだろうか?
それとも何も加えずとも、味の違いがわからないほど人の味覚は鈍くなっているのか?

この詐欺まがいの商法をとった食品加工会社はもちろん、随分前から内部告発がありながら放置した監督官庁も許せないけど、調理済み食品や外食に頼りっぱなしの「食」のあり方を一人ひとり見直す必要もありそう。

Bentou_1 先日行った美容院で担当してくださった同年輩(一人暮らし)の方は「9時過ぎに帰ったら疲れてもう何もする気がしない。また何もしなくても生活ができるし・・・」
現在、同じような生活をしている私も同感。
「暮らし」に手を抜く為のモノや方法はいくらでも用意されている。
過度な労働やさまざまの誘惑は、それ自体が「暮らし」でもあり、健康を支えるものでもある「食」を余りにもないがしろにする。

というわけで・・・私自身も大いに反省。
朝の掃除はほっておいても?「お弁当作り」を最優先することにした。
たとえば昨日のお弁当はこんな感じ。
前日の晩に少し残しておいたお好み焼き、鮭の味噌漬け。グリーンアスパラのチーズ焼きと黒豆。7穀米のごはん。

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2007年6月20日 (水)

食欲増進を期待して

お休みの日にしたいことはいっぱいあるけれど、アッという間に夕方。
普段、手を抜きっぱなしのご飯作りをしなくては・・・と思いつつ、たいして食欲もないし食べ手が自分だけではどうも意欲が湧きにくい・・・。
そこで選んだのはチキンカレー。スパイスで食欲増進を、という狙い。
ひっぱり出してきたのは、ずっと前にKATEKさんのブログで書かれていたレシピ。(おいしそうなので印刷して残しておいた。)
とはいうものの、きちんとレシピ通りに作る性分ではない。
適当にアレンジしながら(といえば聞こえはいいけれど、実は手を抜いたり素材をあるものでまかなったり・・・)圧力鍋で仕上げ。

ワンプレートに盛り付け片すみにはグリーンアスパラのオリーブ油炒めを添える。
辛口仕立てにしたので、レーズンと刻んだアーモンドをトッピング。
ご飯は玄米を炊いてみた。
未だに少しだけ作ることに慣れないので、今回もチキンは1キロ、大鍋いっぱい。いったいいつまであるやら・・・。
でも我ながら、この夏味カレーあっさりとしておいしい!さらに煮込み続けるので、明日になれば少しとろみもついてもっとおいしくなる・・・はず。

玉ねぎをじっくり炒める間に並行して作ったのが新生姜の甘酢漬け。
ご飯を食べるのが楽しみになるくらい、私はこれが好き。
今年は忙しかったので、季節の味のくぎ煮もパス、山椒の実の佃煮、梅干もパス。
でもやっと新生姜はとりあえず2キロを確保。
おまけに「忙しい時の頼り」を既に買い込んである。「便利で酢」という商品名の甘酢。
これは去年に自分で作った甘酢よりずっとおいしい・・・。
というわけで、新生姜を薄く切りさっと湯を通し、「便利で酢」を注ぐだけでできちゃった。
これも「手作り」って言っていいのかなぁ・・・?
カレーと新生姜"

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2007年6月18日 (月)

1日、30時間ほしい~

気がつけば、職場に通じるビルの階段を昇るときに必ず湧いていた「暗~い気持ち」がなくなっている。
慣れないことやキャリア、実力不足から起きるストレスが随分緩和されてきたのだろう。
若者なら、ここからいよいよ本領発揮!さらに仕事を楽しみ力もつけていく・・・ということになる。

ところが当然ながら、これは自分にはあてはまりそうもない。
階段を昇るとき、気持ちは暗くないけれど文字通り「足が重い」。
心は随分軽くなったのに身体が疲れきっている・・・。

毎日というわけでもないけれど、時に9時間を越えるインストラクションになる。
その間、立ちっぱなし、しゃべりっぱなし、パソコンの画面も注視し続ける。(操作のまちがいを見落とさないため、常に目を凝らしている)
もちろん前後や間にスタッフ仕事もあるので、そんな日はかなり長い拘束時間となる。
ぐったり疲れるのだけど相手が「人」(次々と対象が変わるし)だから、気持ちは入り続ける・・・。

というわけで、このところ明け方にきまって足がつり目を覚ます。
どういうわけか痛みは右足首の側面あたりに走ることが多い。この位置の場合、通常の対応のように足先をそらせばさらに痛みが増す。
対処方法がわからないまま、数分間痛みをこらえ続けることになる。

光の輪のようなものが出てきて見えにくくなるという症状も発生し、眼科にも行った。

肩と腰の痛みから整骨院にも。(続けて来るように言われているのに時間が取れず一度きり)
「かなり危ない状態、ぎっくり腰になる可能性も高いので落としたものを取るときなど要注意」とのこと。

「じょうずに年ととる」というのは心もだけど、無理のきかない「身体」とうまく付き合っていくということが大事、なのかもしれない。
それは、「あれもしたい、これもしたい」という欲をそぎ落としていくこと?
疲れて帰るのに、明日はもっと質の高いインストラクションができるように学習しておきたい!という欲だけはムクムクと湧いている。
それでいて仕事以外のことにも目を向けていたい・・・。
戒められるべきなのは「墓場まで持っていけない」といわれる“物”に対する欲ばかりだけではなさそう。

などと言いながら、1日が30時間くらいあったらなどと考えてしまう毎日。
思いと身体とのこのアンバランス状態、どうなっていくのだろう・・・。

何はともあれ、きょうはうまく半休がとれ最優先したのは身体が要求した「睡眠」。
久しぶりに少しお昼寝をしたら、てきめんに身体が随分軽くなって気持ちいい。
簡単なものだけど「一人の夕食」も作った。
あとは掃除と明日の予習とブログ回りと読みかけの本と・・・、やっぱり1日30時間ほしい!
晩ご飯

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2007年6月13日 (水)

リビングの白い天井に虫がぞろぞろと・・・

昨夜のこと、ふと天井を見上げると、リビングの大きな照明の周りに小さな虫が無数にいる。
蚊とはあきらかに違う記憶にない3ミリくらいの黒くて丸っぽい虫。動きは鈍いし人に害を加えるようなようすも見えない。
突如として出現した半端な数ではない虫たちはいったいどこから?

すぐに対応しようとしなかったのは、殺生を避けたわけではなくて・・・こわかった。
発生源が不明なまま、とりあえず帰宅した夫が掃除機で吸い取り虫の姿はなくなった。
ところが今朝・・・今度は台所の窓付近に同じ虫たちがぞろぞろと・・・。

この時点で原因が判明。
その瞬間も、小豆を入れていた紙袋から虫たちが這い出してきていた・・・。
(「ゴメンナサイ」と言いつつ中も確認しないで(その勇気がない)、そのまま二重の袋に入れ捨ててしまった)

小豆は夫の実家から頂いたもの。
梅雨前には冷蔵庫に入れるべきだった。
高齢となり今は米作りをしていないけれど、かつては定期的にお米もいただいた。
梅雨の時期になると必ず虫が発生して、陰干ししたり(虫がぞろぞろと逃げていく)取り除いたりの作業は必須。
その米虫の形状が気持ち悪く虫嫌いの私はこの作業は恐る恐る・・・だった。
同じくいただいたじゃが芋も日にちが経つと芽が伸びだす。数ヶ月経ってしまうと、先に赤っぽい色を帯び長く伸びた白い茎は芋よりはるかに存在感を増す。
それはまるでウルトラマンストーリーに出てくる怪獣のようなブキミさと迫力・・・。
さすがに捨ててしまうわけにはいかず、ビクビクしながら芽(怪獣風の)を包丁でえぐり取る・。

若い友人の一人は買ったキャベツに青虫がいたと、八百屋に抗議の電話をかけた。(店は謝って商品の交換をした)
「それは低農薬で作っているということやから、文句いうこととちゃうで。」などと諭したものの、実は私は虫類が苦手。
青虫も一匹くらいは大丈夫だけど、何匹も取り除いていると次第に気分が悪くなり顔も色を失ってくる・・・。

今の市販の豆類や米はまず虫はわかない。
じゃが芋もめったに芽がどんどん伸びるということにはならない。
科学処理をしているのだろうか?
(芽の処理には放射能を使うとは何かで読んだ)

なるべく低農薬、有機栽培ものを素材としたい、と思いながらもそれにつきものの虫や"芽"が恐ろしい・・・。
う~ん、軟弱。

晩御飯
画像は虫とは全く関係なくて「一人の晩御飯」
黒豆おこわとゴーヤチャンプル、アスパラとえび、たこのオイスターソース炒めにじゃが芋のバター焼き。
なかなか自分の為だけに調理する気にはならないけれど、今夜は簡単なものを作った。
手抜きし続けていたら、かなり体重が落ちてしまったので要注意。
黒豆ごはんは法事用みたいだけど、ふっくら豆ともち米の組み合わせはとてもおいしい。雑穀もたくさん混ぜた。
炊くのは圧力鍋。同じくじゃが芋も圧力鍋でふっくら蒸してから焼いた。
小さいビールも一缶つけて、「一人の晩御飯」は大満足!

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2007年6月12日 (火)

『パラダイス・ナウ』

『パラダイス・ナウ』ハニ・アブ・アサド監督脚本 
仏・独・蘭・パレスチナ・2005年
大阪シネ・ヌーヴォで鑑賞

公式サイト「解説」より
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映画は、パレスチナの幼馴染みの二人の若者が自爆攻撃に向かう48時間の葛藤と友情を描いた物語で、同じくアカデミー賞にノミネートされた『ミュンヘン』がユダヤ人監督スピルバーグによる、巨費を投じて製作したイスラエル人テロリストのエンターテインメント作品であることに対して、今迄語られる事のなかった自爆攻撃者の葛藤と選択を描いている。
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パラダイス・ナウ 自爆攻撃により亡くなったイスラエル人の遺族たちにより、テロを支持する映画ということでアカデミー賞外国語映画部門ノミネート中止の為の署名運動が起きたという。
確かに “自爆”に向かっていく若者の葛藤と選択が現実的なものとして感じられ、いつしかこの若者たちの心に寄り添うような気持ちで鑑賞していた。
(“情報”として入ってくるパレスチナ関係の報道では、ここまで心に食い込んでくることはない。自分の想像力が乏しいせいかもしれないけれど・・・)
とはいえ、決してテロや自爆攻撃を擁護した内容ではない。

主な登場人物の一人、パレスチナの英雄の娘スーハは言う。
「(自爆攻撃は)殉教ではなく復讐よ。人殺しに犠牲者も占領者もないわ。イスラエルに殺す理由を与えてはいけない」

対して、自爆志願者の一人ハーレド、
「平等に生きられなくとも平等に死ぬことはできる。不正がある限り殉教は続く」

「生きるとは?」と改めて考えさせられる。
最低限の衣食住があれば命をつなぐことができる。
でもそこに希望がなければ?
「生きている」今、尊厳を奪われ続けたら?

コンクリートの壁と有刺鉄線、そしてイスラエル兵に囲まれたイスラエル占領地のヨルダン川西岸地区ナブルスの町。
空間も物質も(もちろん文化も)制限がかけられる日常で、若者たちはどのように生きていくことができるのか?
若者を若者たらしめている特質、まっすぐな感性と内からあふれ出すエネルギーはどこに向けられればいいのか?

“志願”でありながら、生きることに道を見出せない結果として自爆志願がある・・・。

撮影場所のひとつは軍隊や検問所に囲まれ、時折爆弾が飛び、近くで銃撃戦が起きるナブルス。映画の中で聞こえる銃声のほとんどが生のものとのこと。
パラダイス・ナウ2 サイードとハーレドが殉教の宣誓をビデオに収めるシーンの現場も、実際に使われた場所。
リアリティに富む描写ながら、戦闘や爆破はない。むしろ静謐さを感じる場面が多い

スーハの主張、「殺せば殺されるだけ、抵抗も解放も別の手段がある」もサイードの心を動かし切ることはなかった。
被占領地の若者たちが、心から「抵抗も解放も別の手段がある」と思うことができる為には何が必要なのだろうか?

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2007年6月 5日 (火)

「信心」のような感覚?

ブログに向かい合う時間は楽しみのひとつ。
書くことが好きだし、何よりパソコンの向こうにつながりを感じる人たちがいるから。
とはいえその楽しみも「お預け」の日々がほとんど。
新しい仕事についてからキャリアアップに全力を傾け、詰め込み学習と体当たり的実習に多くの時間を費やしてきた。
ちょっぴりその成果が出てきたのか、近頃少しは気持ちの余裕をもって仕事に臨む事ができている。
「撤退」を考えたとき、経営者とじっくり話し合ったのも良かったのかもしれない。
でも、力量はまだまだまだまだ・・・不足。
当分は、ブログ更新も含めて「楽しみ」は学習の合間に、ということになりそう・・・。

さてその快調(というほどではないけれど・・・)を支えてくれているものの一つが前回エントリーした赤いiPod nana。
実際のところ、そのきれいな色はちっとも自分に似合っていない。
ペンダントのように胸にたらしたiPod nanaで音楽を聴きつつ、通勤の為の自転車をこぎながら「(似合わないのに)赤を選んだことにちっとも後悔がないのはなぜだろう?」と考えていた・・・。

職場につく頃、思い当たったのは「これはお守りのようなもの」ということ。
似合う、似合わないという現実的な対象ではなく、身に着けているだけで見守られているようなやすらかさがある。
そのやすらかさで、さらに包み込んでくれるのが流れてくる音楽。

信仰心がないせいか今まで「宗教」というものが実感をもって理解することができなかった。
もしや宗教とは、このやすらかさをもたらす「お守り」のような存在のことなのだろうか?
「聖典」と呼ばれるものは流れ出る音楽のようなものなのだろうか?

「赤」を身につけることになったのは、そもそも子どもがその色の時計を選んでくれたから。
赤いiPod nanaにやすらかさを感じるのは、その子の自分への思いを確かに感じているからなのだろう。
「愛される」ことは、「愛すること」と並んで人にとって何よりのやすらぎ。
でも例え家族どうしでも人の心は変化するもの。
「絶対的な愛」を抱き、抱かれる存在として人は神を必要とするのだろうか?

う~ん、何だか、今までちっともわからなかった宗教の原点のようなものが見えてきた気がする・・・。

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