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2007年8月20日 (月)

『切除されて』

「何かを変えていく為にはまず知ることから」とよく言われる。
その通りだろうけれど、映像や文字を通してでさえ余りに残酷で正視できないものもある。
最近に観た映画では『ヒロシマナガサキ』、熱線を浴びた亡骸やひどい後遺症・・・。
毎月届けられるフォト紙『DAYS JAPAN』による、戦争、紛争地での亡骸や傷あと・・・。

「これは現実に起こっていること、目をそむけてはいけない」と、弱気な自分を励ましながらできるだけ見つめるようにしている。
それでもとりわけその弱気を克服できずにいることがある。

切除されて  FGM(Female Genital Mutilation女性性器切除)に関すること。
女性の外性器を全部もしくは部分的に取り去るもので、主にアフリカ地域で古くから行なわれてきた女児の通過儀礼・慣習。
過去のことではなく、今なお毎年約200万人、毎日約6000人の少女がこの恐ろしい慣習の対象になっている。

1959年セネガルに生まれたキャディさんも、当たり前のようにこの慣習を受けさせられた。
はっきりと記憶の残る年齢の7歳で性器切除され、13歳で強制結婚、16歳から5人の子どもを出産、その後自立するに至った自身の闘いの記録を著書『キャディ』で赤裸々に明かしている。

300ページにも満たない中型本なので数日で最終ページに至った。
でも・・・、読み飛ばしたページがある。キャディさんが性器切除を受けるくだり。
そこに近づくにつれて、おなかがよじれていくような感覚に陥り吐き気までしてくる。
「読まなくてはいけない、この人は自身の身体にそれを受けた、そのことを思えば読むくらいはできるはず!」と励ましてみてもやっぱりダメ。未だにその部分を読めずにいる。

フランスではベストセラーになったとか(キャディさんはフランス在住)、みんな目をそむけず読み切ることができたのか・・・?
そのイメージが湧き起こるだけで苦痛に耐えられずにいるのに、今もなおたくさんの小さい少女たちに恐怖の「拷問」は襲いかかり、その後心身への深い後遺症を背負い続ける・・・。
世界には人が為すことで身震いするほど恐ろしいことはいっぱいあるだろうけど、FGMはまぎれもなくその内のひとつ。
その廃絶を強く願いながらも、自分には読み飛ばしたページに向かい合う勇気さえないのは情けないのだけれど・・・。

そもそもFGMに強い関心をもったのは去年の秋、ウスマン・センベーヌ監督による映画『母たちの村』を鑑賞してからのこと。
それまでは「割礼」に女性を対象としたものがあるくらいの知識しかなく、映画を通して知った現実は衝撃といえるほどのものがあった。

少し長くなるけれど、鑑賞後にエントリーした以前のブログの記事(一部)を以下に転記。
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『母たちの村』
大阪での上映を知った時から気になりながら鑑賞をためらっていた映画だった。
ウスマン・センベーヌ監督『母たちの村』
ネットにあった幾つも評価「力強い、音楽が明るく映像が美しい、非暴力の戦いがすばらしい、・・・」などに勇気づけられ劇場に出向いた。
だけどやはり私には124分は過酷な時間だった。

この映画は、アフリカ大陸を中心に今も行われている風習、女性性器の一部またはほとんどを切除したり縫合したりする女子割礼(女性器切除)を描いている。

ここまで書いただけでも、映画に登場した、身体を押さえつけられながら「嫌だよ~」と泣き叫ぶ少女が浮かぶと共に、痛みと吐き気がわいてくる。
上映中もずっとそうだった。
誤解を招くといけないので、ここはしっかり書いておかなけれればいけないのだけれど、客観的に見ればすばらしい映画だったと思う。ネットにあった賞賛の評価は頷けるものだったし、具体的に割礼(女性性器切除)をイメージさせる場面はとても少ない。

でもその「客観的に見ること」が私には相当難しいことだった。
破壊や殺戮を描く映画には、時に足や手が吹き飛ばされるシーンもある。
正視できず胸も痛むが、自分の足や手が痛むということはない。
ところがこの映画では自分の身体が痛い。
少女の恐怖と痛みが心だけではなく、同じ性である自分の身体の深部にも伝わる。
そのシーンが過ぎても、なお残る。

コミュニティでは絶対的なものであるその風習は「男性優位」に基づいたものだろうけれど、受容し少女たちにそれをさせるのは母親たち、実際に施術を行うのも女性。
そのことが、何より憎悪や怒り、悲しみの感情となった。

かつて施術された自分たち自身が、痛みやさまざまな不具合に苦しみ続けている。
目の前の我が子は恐怖で泣き叫んでいる。
麻酔や消毒もない処置は、不具合におさまらず時に小さな命まで奪う・・・。
それでも母親たちはそこにわが子を送り込み、女たちは体を押さえつけて施術する。

映画では、累々と続けられてきたその「風習」に倣わず「割礼(女性器切除)の拒否」という戦いを挑む勇気ある女性が登場する。(笑顔がすばらしく、実に魅力的な人)

子どもに為されるこれほど残酷な「拷問」を私は他に知らない。
命を宿し胎内で育み生みだす祝福された性である女性を、これほど踏みにじる所業を他にしらない。

ひとつ何かの願いが叶えられるようなことがあるならば、この風習が世界中からなくなるよう願うかもしれない、とも思う。

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『切除されて』のことは、映画観賞後すぐに入会したWAAF(FGM廃絶を支援する女たちの会)の会報で知った。
(「廃絶の為に何かできることは?」といてもたってもおられず探した結果、行きついた会)
このサイトにはFGMのことが詳しく紹介されている。

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コメント

こんばんは。わたしもこのことは知ってはいましたが,恐くて本を読むこともためらっていました。映画もDVDで,見ようかどうか迷っています。でも知らないといけないのかもしれませんね。夏ばての季節を通り越したら,みることができるかもしれません。

投稿: KATEK | 2007年8月20日 (月) 21時35分

りんさん。こんばんは。
女性に関する暴力については、慰安婦の問題も同じく、強烈に自分に迫る恐怖を感じてしまいます。そのことは、同時に相方などの男性にとってはとても、正視するのに後ろめたさを感じるという類のものであるということも知っています。

本当にこのようなことを無くすということを多くの人が訴えなくてはならないでしょう。いかに意味のないもので、人の命や尊厳を踏みにじるものであるかということを。

投稿: pianocraft | 2007年8月20日 (月) 23時37分

KATEKさん、こんばんは。
ほんとうに恐いですね。私も映画を観るにあたってちょっとした「覚悟」がいりました。
でも鮮やかな色彩に音楽、踊りや表情豊かな笑顔・・・、とアフリカの明るさも十分感じさせてくれ見応えのあるものでした。
(確かに、キリキリとした痛みも感じずにはおられませんでしたが。)

『切除されて』の著書、キャディさんは知的で美しく前を向いて生きる方です。
その生き方の土壌もやはり、生まれ育ったコミュニティで育まれたものなのでしょう。さまざま優れた文化や風習はあるのでしょうが、FGMは絶対にダメ、です。

投稿: りん | 2007年8月21日 (火) 22時56分

pianocraftさん、こんばんは。
>男性にとってはとても、正視するのに後ろめたさを感じるという類のもの
そんな風に考えたことはありませんでした。女性に関する暴力を感じるとき、知らず男性を敵視していたのかもしれません。
感情的になっている自分に気づかされました。
女性でも慰安婦のことでもまったく憤りを感じないどころか、(加害側を)擁護するような人もいますのにね。

それにしてもFGM廃絶を言いながら、「切除」の場面を読む勇気さえないのが情けないです。でも必ず読むつもりです。

投稿: りん | 2007年8月21日 (火) 22時57分

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