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2008年6月26日 (木)

『闇の子供たち』

前々回エントリーした『コタンの口笛』(石森延男)は、先を読むのがとても楽しみだったし、どっぷりと作品にひたりきるのが心地良かった・・・。
が、同時に読み始めたもうひとつの本『闇の子供たち』梁石日(ヤン・ソギル)は途中、たびたび吐き気に襲われ幾度も放棄しようと思いながら、やっと読み終えた。
最後までたどり着いたのは、「知りたい」という欲や「知らねば」という義務感だけではなく、やはり作品の巧みさがあってのことだろう。
この夏に公開予定の映画『闇の子供たち』阪本順治監督の原作でもある。

闇の子供たち *裏表紙による作品紹介
【貧困に喘ぐタイの山岳地帯で育ったセンラーは、もはや生きているだけの屍と化していた。実父にわずか八歳で売春宿へ売り渡され、世界中の富裕層の性的玩具となり、涙すら涸れ果てていた…。アジアの最底辺で今、何が起こっているのか。幼児売春。臓器売買。モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と人間の飽くなき欲望の恐怖を描く衝撃作。】

幼い少女に性的暴力を為す事件は、日本でもしばしば起こる。世間の犯人に対する怒りは当たり前ながらすさまじいものがあるし、マスメディアでも犯人を擁護する報道などまず見られない。
幼い子相手では、「合意か否か」などの判断が必要ないのはもちろんのこと。

ではなぜ、それと同じ行為がまかり通るところが存在するのか?
国内で「凶悪非道の暴力」と認識されていることを、なぜタイにおいて少ない数ではない日本人が(他国の人もいるが)行っているのか?
相手が子どもであれば、「買春」と言えるものですらないことは明らかなのに・・・。

『闇の子供たち』は冒頭からタイにおける子どもたちの「売春」実態を、赤裸々に描写していく。
心はもちろん、身体もいまだ受け入れるまでに成熟していない子どもたちをどのように「調教」していくのか・・・。
暴力や飢えに対する恐怖から「心」は受け入れ始めても、受け入れきれない幼い「身体」はどのように傷つき、破壊されていくのか・・・。

幼い者への性的欲望などみじんも理解できない私には、「幼児売春」に関して書かれていることすべてが「なぜ?」につながり、何をどう考えればいいのかすらわからなかった。
ところが後半部分で「臓器売買」に主題が移ると、おぼろげながら見えてくるものがあった。

もし我が子が重大な腎臓病に罹り「移植しない限り数か月しか余命がない」と宣告を受けたなら・・・。
死は刻々と近づくのに我が子に適合する臓器提供者は得られない・・・。
そんな時に、お金さえ出せばタイで臓器移植が受けられると誘われたなら・・・。

「提供される臓器」には何か「事情」があると感じられても、いやはっきり我が子の命と引き換えにその見知らぬ提供者に死が訪れるということを知ってしまっても、「我が子を助けたい」という欲に負けてしまわないと、自分は断言できるだろうか?
物語に登場する日本人夫婦はそのようにしてタイに我が子を連れて行く・・・。

我が子への思いと幼い者への性的欲求(それぞれの重大な結果も)は同一視はできないけれど、「富める者」が「貧しき者」を蹂躙する構図は同じ。
公にはできないどろどろとした「欲」を自分自身も内包しているだろうし、その受け皿が存在すれば自ずと引き付けられるだろう。
そこに「業者」は介在し莫大な利益を上げる。
そして犠牲となるのが非力で小さい子ども

つまるところ直接関わっていなくても、100%の「No」を断言できない自分もまたそのような「業者」や仕組みを支えている、ということなのだろう
尚、この本にはその「仕組み」が巨大で強力、いかに暴力的かも描かれている。

どろどろとした人の欲は「闇」であり、それを支える仕組みも「闇」の中、そして子どもたちは「闇」に葬られる・・・。

読めども読めども絶望のようなものが広がる本ではあるけれど、一筋の「光」も描かれている。
それは、自身への暴力に怯えながらも、あくまで子どもたちに寄り添おうとする日本人のNGO組織に所属する女性、音羽恵子の存在。

貧困な想像力を補って余りあるようなリアルな描写による実態に衝撃を受けながら、何とか読み進んだので、「ぜひ」とは薦めにくいけれど、読まれた方の感想を頂けたら幸い。

近く公開予定の映画は、記述に匹敵するようなリアルな映像は考えられないし、どのような描き方をしているのだろう?
視点は同じであってほしい、と願っている。

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2008年6月19日 (木)

カーテンができた。

トイレのカーテンを替えようと思い立って数か月。一日延ばしだったけど、ななぼうさんの「カフェカーテン」に触発されてやっと作り上げた。
(あちらはプロ、こっちの器用さは「中の下」、決して比較しないでくださいね。)

もっとも「作り上げた」などというほどたいそうなものではない。
もともとかかっていた生成りのレース模様のあるカーテンを利用した。

裁断し上部と下部に分け、上部の棒を通す部分はそのまま利用して窓のカーテンに。
窓のカーテン
下部は棚のカーテンにして、棒通しは市販のレースを使った。
棚のカーテン
ついでに、今まで使っていたペーパーホルダーも、同じ布でカバーリング。

落ち着いた色調のシルク紬と化繊の生成りレースとの組み合わせは、結果を見るまではちょっとドキドキだったけど、大いに満足。
トイレの雰囲気が一変し、和調でありながら華やかさがある。(トイレに華やかさはいらない・・・?)
おまけに、今まで使っていたものも処分しなくて済んだし、簡単な直線縫いだけでできたし。

でも、ただひとつの気がかりがある。
母が遺した着物を何かに利用したい、と始めたリフォームだけど、最近になって母の思惑が少々気になってきた。

たとえば、このカーテン。
お気に入りだった(おまけに自分で丁寧に縫い上げた)上質の着物が、「トイレカーテン」に変身したのを見て、天国で嘆いているのでは?

「利用」することばかり考えてしまい、なぜそのままの形で慈しもうとしなかったのか、とちょっと後悔するところがある。
たとえ着なくても、時々取り出しては、眺めたり、手触りを感じたり、の方が母の思いに添っていただろう、と今では思う。
でもね、時すでに遅し。もうほとんどの着物をほどいちゃった・・・。

「おかあちゃん、こんな娘でごめんね」と詫びながら、丁寧にできるだけ美しいものに変身させてやるしかない。
(下の画像が元のカーテン)
元のカーテン

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2008年6月13日 (金)

『コタンの口笛』

友人が札幌に住んでいたので、若い頃いく度か北海道を訪れている。
それなのに一度もアイヌ文化に触れる機会をもたなかった。
アイヌ民族を先住民族と認定するよう政府に求めた国会決議への動きを知る中で、今更ながらそのことを残念に感じた。
知らないことは山ほどあるけれど、「アイヌ民族」のこともそのひとつ。
アイヌの人と出合う機会もなく、また関連書籍や映画、何ひとつ読んでいないし観てもいない。
あきれてしまうほど無関心できていたということ。
コタンの口笛
遅ればせながら、手始めにアイヌを描いた『コタンの口笛』(石森延男):講談社「青い鳥文庫」を読み始めた。
そしてどっぷりはまっている。

笠原肇氏の解説によると、この本は森延男という作家の「美術論」であり「自然論」であり「教育論」であり「平和論」であり「宗教論」でもあり、そのほかにもさまざまな思想がつまっているとのこと。
児童文学なのでその解説も具体的でわかりやすい。
たとえば、「美術論」については、「絵」という芸術はどういうものでなくてはいけないか、どういう気持ちで美術作品を鑑賞すべきか、という意見が述べられていると解説されている。
また「教育論」については、教育とはどうあらねばならないか、先生は子どものなにをわかってやるべきなのか、との意見が述べられているとのこと。

物語は、アイヌの子として差別や貧しさに苦しみながらもけんめいに生きる中学3年のマサと中学1年のユタカという姉弟の心もようを中心に描かれていく。
そこにからめられていく、関わりのある人たちを通した美術、自然、教育、平和、宗教などに関する描写は共感ばかりでなく、教えられることがいっぱい。
アイヌ独特の文化や習俗に関する記述も、物語の展開のなかに巧みに組み込まれているので、決して押し付けがましくない上に表面的なものに終わっていない。

読み始めてすぐにそそられたのは、「アイヌ音楽」。

「うれしいときには、うれしいようにうたい、悲しいときは、また悲しいようにうたうことのできるふしぎな歌 」と表現されている「ヤイシャマ」。
また、口にあてて弦を引きながら音を出す竹でできた「ムックリ」という名前の楽器や、「トンコリ(五弦琴)」・・・、聴いてみたい、見てみたい!(できればその文化が育まれたアイヌの地で)

本を読むとき、特に惹きつけられた箇所に付箋を貼る習慣がある。
全4巻の3冊目に入ったところだけど、既にこれは付箋だらけ。

その一箇所を抜粋。

図画を教える谷口先生がマサに話す。
「どうして樹木は美しいんだろう、考えてみたことあるかね。」
「動物たちは、かって気ままに動きまわる、走りまわる。おちつかないからだよ。精力を使いはたすからだよ。ところが、樹木はどうだ。いったん根をおろしたが最後、自分の力では微動だもしない。その場所でのみ、せいいっぱい生きのびようとする。どんなに細かいこずえも、そこだけの空間を楽しむんだ。葉っぱという葉っぱは、一枚残らず日光を浴びようとして勢ぞろいをする。芽から葉を、花をさかせる、わずかな変化を、どれほどだいじにしているか。無言の生き方が、あのように、樹木を、いきいきと美しくさせているのだよ」

アイヌのことを知りたいという動機で読み始めた『コタンの口笛』。
アイヌやアイヌ文化、その歴史への関心が深まったのは予測されたことだけれど、自分の心にぐっと食い込む描写が惜しげもなく散りばめられていたことはうれしい驚き。

すっかり引き込まれ、少しの時間でもむさぼるように読んできたが、実は現在ちょっと中断。
マサとユタカの父イヨンが亡くなるところで涙がぼろぼろこぼれて読み進めなくなった。
もちろんその場面表現も「かわいそう」という感情だけを引き出す表層的なものではなく、人の死という意味合いが、しっかり書き込まれている。
それでも、読者に過ぎないのだけど、私はこの悲しい「事実」が受け入れられない・・・。

母についで父をもなくしたマサとユタカは、また前を向いて歩き出すのだろう。
その二人の強さに助けられ、しばらくしたら私も先へと読み進んでいこう。

『コタンの口笛』は1957年に世に出た作品とのこと。
このように優れた児童文学に子どものときに出会わなかったことはとても悔しいけれど、
今出会えたことを感謝しよう。乏しい感性をもしっかり刺激してくれるのだから。

たくさんの子どもたち(や大人)に読んで欲しい本であるのに、もはや絶版で、図書館や古本でしか入手できないことも残念。
この本のおかげで、ほんの少しは身近になった「アイヌ民族」のこと、もっともっと知りたいし感じたい。

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2008年6月 9日 (月)

テーブルが「まっさら」に戻った!

タイトルに「まっさら」と書いたけれど、ちょっとそれは違っているかもしれない。
傷一つなくつるつるの美しい天板になったけれど、3年間使い込んだことによるしっくりとした落ち着きは残したまま。

3年前に転居したときに、友人の木工家が作ってくれたリビングのテーブル。
材料は奈良県吉野の楢の木で、長さは2メートルを超えている。

我が家に初めて来られる方は、どなたもそのテーブルの大きさと美しさに目を止められる。
お茶や食事はもちろん、本を読んだり裁縫をしたり、あるいはいっぱい材料を広げる際の調理の場にと、毎日大活躍。
でも、生活の場の中心にある家具なので気をつけていても汚れや傷が増えてくる。
それは「家族の歴史」には違いないのだけれど、時にピカピカつるつるだった頃のテーブルが思い出される・・・・・。

そんなところに、作り主の友人木工家がテーブルのメンテナンスに来てくれることになった。「メンテナンス」に具体的なイメージを持てないまま、昨日がその当日。

メンテナンス中 工具、道具を室内に持ち込み、まずは「サンダー」という電動式サンドペーパーをテーブルの上で動かし始めた。
ふたつ用意してきて、ひとつを夫に渡している。夫には初めての道具なのだけれど、とてもスムーズに使っている(ように見える)
表面を薄く削り、以前の塗装や細かい傷を取るらしい。
この作業は細かな木ぼこりが舞う中で、何と延々2時間。
サンドペーパーを幾度もつけかえ(だんだん目も細かいものに?)ひたすら、テーブルの上を行ったり来たり。たまる細かなクズは小まめに掃除機で吸い取る。

かねてから無垢の家具の作品の美しさと存在感にあこがれていたのだけれど、このひとつの工程を実際に見て、木工というのは「地道な仕事だぁ~」と少々驚き。
2時間後の天板は、もはや小さな傷さえ一つも残らず、いつまでも触っていたいような滑らかさ。

その後は「オイルフィニッシュ仕上げ」ということで、天然成分のオイルを刷毛で塗る。
塗った後、完全に乾く前に拭き取る(木にしみこんでいない分を)ことが必要ということで、べたべたしている表面をウエスでしっかりこすり取った。
サンダーもオイル塗りも見ているだけしかなかった不器用な私も、このオイル拭きでやっと出番。
ほんのちょっとだけでも、我が家の家具の再生に手を貸してやれて良かった!

思えば約30年前に結婚してから、このテーブルは何代目になるのだろう?
それまでのものを全部使い捨ててきている。
この楢のテーブルは、新建材でできた味気ない空間を、しっくりしたものに変えてくれている。
おそらくは、私が人生を終える頃になっても、テーブルは厳然と存在しているだろう。
その時まで、わが家の中心にあって、ずっとずっと一緒に時を刻んでいけることがとてもうれしい。
目の当たりに「再生」を見たことや、ほんのちょっぴりでも手を貸したことでますます愛着が深まっている。
出来上がり

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2008年6月 5日 (木)

ななぼうさんの手仕事

とっても大切にしているとんぼ玉のネックレス。
ある作家の方の作品で、とんぼ玉も素敵だけど、玉を通している輪っかの部分がまた素敵。
落ち着いた色調の紬の布を細いループに仕立ててある。

アクセサリー類はすべて合わせても10本の指程度しかもっていない。
嫌いというわけではないけれど、お気に入りのものが少しあれば満足している。
とんぼ玉は、その数少ないお気に入りのひとつだったのに、愛用している内に止め具がついている端っこの部分がぼろぼろになってしまった。

アクセサリー屋さんにあるいろいろ種類の鎖、または大きな手芸屋さんのアクセサリー関係のパーツなど幾つ見ても、好みに合う代替品がない。
「いっそ自分で仕立てようか!」と意気込んでみても、すぐに「あんなに細いループなどできないなぁ」と現実が見えてくる・・・。

そこで、「プロの手仕事」にお願いすることにした。
ブログ友のななぼうさんは和布のリフォームのプロ。小さな仕事をお願いすることに遠慮があったが、気持よく受けて下さった。

結局、代替品となる新しいものをきれいに仕上げていただいた上に、ぼろぼろになったものは丁寧に補修(端部分は切り落として)して下さった。
新しいものは4点。
画像で送ってくださったななぼうさん所有の布から選ばせてもらったもの2点と、私が「ぜひ、これでも・・・」と郵送した布でのもの2点。
製作費はとてもリーズナブルで、しかも1点はサービス。

私が送った布のひとつは、金が入ったものなのでごつくループにするのは大変だったと思う。
どれも素敵で、眺めているだけでうれしくなる。
とんぼ玉は、その大切なものと、下の画像のもの、ふたつしか持っていない。
もう少し欲しくなっちゃったかな。

ななぼうさん、丁寧なお仕事、ありがとうございました。
また、何かの折には頼らせてくださいね。

ちょっとぼんやりした画像になってしまいました。(自分が写っているものはワザと?)
補修していただいたものと大切な方のとんぼ玉の画像はなくて、ごめんなさい。
ウール

絹

紬

とんぼ玉

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2008年6月 3日 (火)

『ふるさとをください』

「心」は自分のものでありながら、なかなか思うように操ることができない。
「考えないでおこう」と思うことも「考えてしまう」し、制御し切れないままの感情を人にぶつけてしまうこともある。
そんなやっかいな「心」にもし病があったらどれほどか不安だろう、と推測することはあっても、精神に障害を負われた人たちのことを改めて考えることをしてこなかったように思う。

誘われて参加した映画会、『ふるさとをください』ではその機会を得た。
製作:きょうされん(旧称:共同作業所全国連絡会)
監督:富永憲冶
脚本:ジェームス三木

ふるさとをください あらすじ (公式サイトより)
片倉千草は大学院を出て県庁に就職。父の雄二郎は小売店を営み、地域の世話役として活躍。母の邦子は父を支え、弟の健太はサッカー好きの高校生。

その頃、町に障害のある人たちが集団で引越して来て、クリーニングとパン製造の共同作業所を始めたという…。町の人々は警戒の目を光らせ、町内会役員の父も、まとめ役として反対運動の先頭に立つ。
そんな折、千草は、共同作業所の若い職員である内藤明彦と知り合う。彼の案内で、初めて障害のある人たちの働く姿に接し、共感する千草。一生懸命な千草だが、反対運動を進める雄二郎の態度は、あくまでも頑なである。
・・・・・・・・・

大路恵美、ベンガル、藤田弓子、中山仁といった役者の個性が光る。
実際に和歌山にある施設「麦の郷」がモデルになっているよう。
余りにハッピィエンドだし「優等生」の入所者ばかりが目立つのは少々気にかかるけれど、骨子はしっかりしているし「笑いと涙」の見やすい作品に仕上げている。
何より、「心の揺れ」のことや、「障害」を負ってしまった人たちが退院してもなお社会に居場所のない現状、そして「共生」という意味合いなどを知ることができる。

上映活動も精力的にされているよう、お住いに近い会場があればぜひご鑑賞を!
最後にひとつのシーンだけちょっと紹介。
ベンガル演じる雄二郎が、作業所にやってきて所長役の藤田弓子私と対峙する。

「私らが生まれ育った大事な故郷に、よそもんが入ってきてひっかき回されたらかなわん、分かりますか?」
「みなさんが故郷を大事にするお気持ちはようわかります、恐れいりますが、そのふるさとをほんの少しだけ、分けてもらえんでしょうか?」
「分ける?」
「ここにいてる人たちには、帰るふるさとがあらへんのです」
「…」

理解しあって、分けあって、支えあってこその社会なのだろう。
地域も、日本も、世界も。

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