1昨年、大阪中之島であった辺見庸さんの講演は、確か退院後初めてのものではなかったかと思うが、参加することができた。
お身体はご不自由なものの、話には力がこもり、もちろん内容も冴えわたっていた。
その後テレビや新聞でもお見かけすることもないまま(気がつかなかっただけかもしれない)、昨夜大阪の「クレオ大阪中央」で開催された講演会に参加した。
開場15分前に開場に着くと既に長蛇の列、最後尾につくがその後ろもみるみるまに連なっていく。
あらかじめ「風邪を引かれている」というアナウンスが会場にあったが、定刻になると、辺見氏は片足を引きずりながら登場。
壇上の席に着かれると「風邪をひいているのでエネルギーがもったいないから、あいさつ抜きで」と、すぐにお話を始められた。
体調の加減もあるのだろう、1昨年よりも顔は白く、ほっそりと感じられる。
写真、小説や詩など多岐にわたり引用されながら、ゆっくりとよどみなく語られること、実に3時間(途中10分間の休憩)。
実のところ、仕事を終えてかけつけた身にはかなりこたえた。
学生時代はともかく、同じ人の話を3時間聞く、という経験はめったにない。
もちろん、私以上に講演者である辺見さんの負担は相当のものであったろう。
力となっているのは、内面に燃え続ける熱い炎に違いないのだろうが、ご自身まで焼き尽くしてしまうことのないよう切に願う。
さて、エントリの中心は講演内容についてであるべきなのだろうけど、私の集中力は、残念ながら病後である辺見氏に全く及ばず、いたってたよりない。
そもそも多くの文献を引いて表現される深い思索を簡潔にまとめる、ということ自体(私には)無理なことで、表面的な言葉にとどまり真意を伝えきることができていない、と自覚しつつ断片を書き記してみる。
アメリカの金融システムに合致したものが「勝ち組」として「負け組」からすべてのものを奪っている。
茨城と秋葉原で連続して起きた「無差別殺人」の加害者たちの世界からの切断、孤絶感。
「不必要」「無価値」「ガラクタ」「部品」とみなされる人たちに対して痛みを感じる感覚をマヒさせられている。
本当に大事なことは、こうした人たちに対する視線、やさしさ、愛し方。
そのやさしさが本当の怒りを生む
「プレカリアート(アンダークラス)」は、人間なのに一時的な「部品」としかみられていない。
互いにおとしめあう社会にあって脱落する、その生体反応はむしろまともなもの、そうでないものはおのずと狂気である。
【この日の演題は「痛み、あるいは狂気について-"彼"は狂っているか。私たちは正気か(秋葉原事件を念頭に)」
デジタル革命が人間に与えている影響はとても大きい。
テレビは政治というものを芸能ショー化、大衆迎合的なヒューマニズム化、情報のイメージによる論理の排除、分析的思考を無力化・・・。
今"価値観"は奈落の底に落とされている。
もう「人民」「大衆」「市民」というくくりから離脱し、か細い声でも何かを言うべき。
こうした時代にあって現実に暴動は起きている。しかしそれは内向的なもので、すなわち内向的暴動というのは"自殺"。外への転化が必要。
そして、読むことを強く推されたのが『敗北を抱きしめて』(副題「第二次大戦後の日本人」)ジョン・ダワー著。
我々の"自画像"が書かれているとのこと。(本来は自分で描くくものである自画像をアメリカが描いてくれている。)
お話を聴いた私は読もうと思いながらも先延ばししていたのを「今すぐに」という気持ちにさせられたのだけど、"自画像"の意味合いと共に、このあたりの辺見さんの言葉をうまく拾って伝えることができない。
まずは読んでみて、いずれ感想などをエントリしたいと思う。
(市の図書館蔵書を自宅のパソコンで検索すると、上下巻とも貸出可能という結果。さっそく今日借りてきた。)
何とか文字列にできるのはこんなところでしょうか。
(語られた大切な部分でスポッと抜け落ちているものもあります)
ちょっと余談ですが、辺見さんは「記号」表現を真似られ、ご自分のことを「PPG(パーフェクト ポンコツ じいさん)などと称され会場の笑いを誘っていました。
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