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2009年2月22日 (日)

しばらくお休み

どうも目がいけません。
からだもいけません。
原因ははっきりしています。
パソコンのやり過ぎ。
仕事でパソコン、仕事の為の学習でパソコン、プライベートでパソコン・・・。

高年で始めた新しい仕事、同僚にも新旧交代があり気がつけば2年で、はや古株。
実力が伴わない「古株」も、さすがに新人たちに難易度の高いソフトのインストラクションを押し付けるわけにいかない。
そんなこんなで、2年経っても学習時間は増えるばかり。
といっても、膨大な時間を費やさざるを得ない原因は(加齢による?)理解度が低い為、ということは重々自覚。
自分には無理、と潔く撤退する選択もあるだろうが、やはり「石の上にも3年」はねばりたい。

毎日のパソコン操作時間が、既に限界と思われる時間を越えている現状。

仕事は離せない。
仕事の為の学習時間は短縮できない。
ならば、プライベートでのパソコン利用をあきらめるしかない・・・。

「せめて仕事関係以外のパソコン操作をしない」との線引きは遅すぎるくらいだったかも?
ブログと向かい合う時間は私の大切な日常のひとつだけど、これもしばらくは手離すことに。
といっても、目の状態や生活リズムが、多少なりとも改善されてきたならまた「書きたい虫」がうずいてくるに違いないけれど。

マイペースの気ままブログにお越しくださっている皆さま。
いつもありがとうございます。
しばらくはエントリできそうもありません。

定期的に読ませていただいているブログは、これからも時々はおじゃましますので、またお目にかかりましょう。

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2009年2月15日 (日)

河内長野シティマラソン

久しぶりに夫のお供でマラソン会場へ。
地方のローカルマラソンながら、会場の中学校には人があふれている。
初夏のような陽気もあってか、リラックスしたようすの参加者が多い。
「ファミリーの部」もあるのだろう、ゼッケンを着けた子どもたちが明るい笑顔で走り回る。
会場周辺ではウォーミングアップに余念のない人たちがいっぱい。

それにしても若者が走る姿は何て軽やかなのだろう。
くったくのない笑みを見せているその顔には、たるみひとつない。
内面からも外面からもほとばしる溌溂さがまぶしい。
年を重ねて得るものは大きいけれど、失うものも確かに大きい・・・。
(といっても年配の方たちの走りも「いぶし銀」のような魅力、あります!)

スタート時間が近づいて、みなスタート地点へと移動。
2000人ほどの参加者があったらしいが、老いも若きも、男も女も、ぞろぞろとつながる列はとても長い。視覚障害者の方もおられる。
マラソン1

マラソン2
私は走らなかったのだから、達成感も筋肉を使った気持ち良さもないけれど、マラソン大会の帰りはいつも気持ちが晴れやか。
人がいっぱい集まるショッピングセンターや娯楽場は大嫌いで、できるだけ避けているのにマラソン大会の人ごみは気にならない。
自然豊かなところで開催されることが多いからというより、おそらく「走る為」に集まる人たちの表情がいいからだろう。
ギラギラしたものを感じさせる市民ランナーはほとんどいない。

日がなパソコンに向かう1日、万歩計は3千台を示すこともあるが、今日は1万を越えている。
見学だけのマラソンは案外、身体の健康にも良かったみたい。

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2009年2月12日 (木)

『だいじょうぶだよ、ゾウさん』

『だいじょうぶだよ、ゾウさん』は「死」に向き合った絵本。

年老いたゾウとおさないネズミは仲良し。助け合って暮らしています。
ますます老いたゾウは、つり橋を渡って深い谷の向こうにある「ゾウの国」に行く日が近づいています。
ところが谷にかけられたつり橋は壊れていて、ゾウは渡ることができません。
ゾウが橋を渡ると2度と戻ってこないことを恐れていたネズミでしたが、やがて橋をしっかりと直してやりました。

だいじょうぶだよ、ゾウさん *本文より少し抜粋*
ゾウは、こころをきめると、せまいつりばしをわたりはじめました。
ネズミはおおきな声でいいました。
「こわがらないで。もう、がんじょうになってるから!」
ゾウはふりむいてこたえました。
「こわくないよ。だいじょうぶ、安心してわたるさ!」
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かつて幼かった頃(精神が、ですね)「死にたい」と幾度か考えたことがあった。
また一方では、いつの日か必ず訪れる「死」が怖くて怖くてたまらなかった。
あげく、「『死にたい』と感じたそのときに死んでしまえば、恐怖から逃れられる」と究極の結論に至ったことも・・・。

死んでしまわなくて本当に良かった!
あの頃は「生きる」ということがちっともわかってなかったし、もちろん「死」もわかっていなかった。
その後はせいいっぱい生きてきていると思うけど、いつの間にか「死」というものにも向き合おうとし始めている。
この絵本は、そっとやさしくその手助けをしてくれる。

今でもやっぱり「死」はこわい。
でもその時が来たら、ゾウさんのように「こわくないよ。だいじょうぶ、安心してわたるさ!」と言える自分でありたい。
そう言える自分であるための生き方をしたい。

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2009年2月 8日 (日)

『懺悔』を観る

「ペレストロイカの象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」と肩書きされた映画が大阪十三「第七藝術劇場」で上映されている。
グルジアのテンギズ・アブラゼ監督による『懺悔』。
1984年に製作され86年にグルジアで公開、その翌年にモスクワで公開。
日本での上映はなかった。
1987年カンヌ国際映画祭審査員特別大賞を受賞している。

かつて市長として権力を振るっていた男ヴァルラムが死に埋葬されるが、その遺体が3度までも掘り起こされるという事件が起きる。
犯人はケテヴァンという女性。彼女の両親は、かつてヴァルラムにより粛清、殺害されていた。
法廷で過去を振り返る形で、「独裁者」(スターリンでもありヒトラーでもあるような・・・)を戯画化したようなヴァルラムとその取り巻きによる無差別な粛清が明らかにされていく。

才能ある独裁者ヴァルラム、息子アベルは父が行った弾圧を「国と時代」の為と受け入れている、事実を知った孫のトルニケはそんな父が許せない・・・。

詩的、幻想的に描きながら真実を照らしていく手法は、印象的で眼と心に食い込み、観応え十分。
鑑賞中ふとギリシャの監督テオ・アンゲロプロスの作品を思い起した。

公式サイトには昨年来日した主演俳優アフタンディル・マハラゼさん(ヴァルラムとその息子アベルの二役)のインタビューもある。

Q:今この時代に公開される意味は?
A:非常に重要だと思う。でも残念なことに、20年目に作られた作品を今観ても、古く感じないというのは、今も昔も状況は変わっていないということでしょう。

法廷でケテヴァンは「私が生きている限り(ヴァルラムを)墓地で眠らせません。」と言い放つ。
「死」はすべてを「浄化」し人々が死んだ者の罪や過ちを忘れ去ることを許すものではなく、死んでも尚負い続けなくてはならないもの、人々が忘れてはならないものは、あると思う。

「第七藝術劇場」に貼られていたポスター、いかにも昔の映画風のところが気に入り(上映終了後にでももらえないか?と)窓口で聞くと、「販売しています」とのこと。
目を引く人気ポスターということなのだろう。
さっそく部屋に飾って喜んでいる。大きな日本語がじゃまなのが残念。
懺悔

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2009年2月 4日 (水)

古いお寺を訪れる

近隣(といっても車で40分くらい)の山手にひっそりとしたお寺があると知人に教えられた。

高貴寺」と言う名前で、とても静かで人と会うという事もなく聞こえるのは椿の花が時々ボト!と落ちる時の音ぐらい、だとのこと。
日曜日の午後に行ってみた。
山の途中で車を降り、かなり急な道をどんどん登っていく。

「おとなしくかわいい犬がいて道案内をしてくれるよ」とも聞かされていたが、
「ん?犬が道案内?」とよくわからずにいた・・・。

坂を上りつめたところに、犬はいた。
高貴寺のわんちゃん
私の姿を見つけるなり「ワン、ワン」と声高に吠えつきながら、後ずさりするように移動していく。
たいした犬好きでもなくちょっぴり怖さもあって「どこがおとなしいねん」とぼやきつつ、距離を置きながらも何となく犬が進む方向につられていくと、そこに本堂らしい建物があった!
山深いところに位置し観光用に整備されていないお寺の本堂のありかはわかりにくい。
「そうか、これが道案内であったのか!」と納得するやら感心するやら・・・。

椿はもうすっかり落ちてしまい「ボト!」も聞こえず、歩くほどに静謐と静寂に満ちた空間に惹き込まれていく。
かつての栄華を感じさせる広い敷地は小さな森のよう。
樹齢を重ねた大木、鮮やかな濃緑の苔。
長年の風雪に削られたたくさんの石仏。
建物に彫られた細工の見事さ・・・。

高貴寺1

高貴寺2

高貴寺3

曇天の梅
ただ境内でぼんやりしているのも心地よさそうだし、一帯を幾度散策しても飽きることもないだろう。

あちらこちらで見つけた梅の大木は8分咲き。
白いもの、蝋梅らしいもの、赤いものもあったが、曇天の下ひなびた山奥に広げた枝は梅園にはない野趣があり見とれる。
春には桜が美しいとのことだし、紫陽花の群生(のあと)もあり四季折々、花木も愛でることができそう。

ほとんど人の姿を見ないことも大きな魅力だけど、もしお近くの方がおられたらぜひ一度訪れてみられることをやっぱりお奨めしておきたい。

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2009年2月 2日 (月)

「ふん、ふん」の相槌はあかん

職場の後輩は増える一方。2年ではや“古参“となっている。
もちろん、年も一番上。
年齢差は“際立つ”くらいのものがあるけれど、休憩時間も彼、彼女たちとの会話を楽しんでいる。
話題によってはまったく理解不能のこともあったりするのだが、「わかります?」と説明も加えてくれ、年輩の私を輪からはずそうとしない気遣いがうれしい。

この後輩たちから「(年やのに)とても前向き!」とよく言われるけれど、どんなに前向きでも“若さ”から発散されるキラキラしたエネルギーの前では線香花火の勢いもない。
もちろん負けん気などはみじんも起きず(自分に対しての負けん気はあるが)、輝いている若者たちと共に働くことを楽しんでいる。

が・・・、一月ほど前に入ってきた20代後半の新人とはどうも会話が続かない。勉強熱心で笑顔の多い女性なのだが、相槌は必ず「ふん、ふん」と言う。

「すみません、ちょっと教えていただきたいのですが・・・」と丁寧に切り出されることがある。
知っていることはできるだけきちんと教えたいと思っているので、実際にパソコンを操作しながら手順を説明していく。
そのときの相槌(というより返事なのだが)も「ふん、ふん」

状況にもよるが私は若者のため口は余り気にならない。
ところが、この「ふん、ふん」だけはどうも気力がそがれる。
教えを請われたときは、それでも最後まで説明するが、私的な会話でこの相槌が返ってくると、とても話を続ける気にならない。

なぜ「ふん、ふん」なのだろう・・・?
と疑問に思っていたら、昨日のラジオ番組でその解説をやっていた。
社会経験が乏しい若者たちの間で広くみられる状態であるとのこと。

なるほどと合点がいくものの、欠けているのはむしろ「社会経験」より、「ふん、ふん」という言葉を返すことが不適切と感じる「感性」だと思う。
彼女のことが嫌いというわけではないのに、その感性の前でしり込みしたまま「ふん、ふん」は止めよう、と伝えることはまだできていない。

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