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2011年5月12日 (木)

20数年目の『まだ、まにあうのなら』

年末に娘が帰ってきていたとき、書庫をのぞいて「原発関連の(古い)本がいっぱいあるなぁ」と言った。

チェルノブイリの事故で原発の恐ろしさを実感し、関連本を読み始めた。
その後ずっと継続して関心をもっていたはず・・・なのに、このたびの福島のことがあっていつの間にか自分が無頓着になっていたことを思い知らされた。

まだ、まにあうのなら 当時、想像力が乏しい私にも原発の恐怖をまざまざと伝え、原子力が絶対に人間と共存できないことを悟らせてくれたのが、地湧社の『まだ、まにあうのなら』という小冊子。
甘蔗珠恵子(かんしゃたえこ)さんという2人の子どもの母親が書いた長い手紙で構成されている。

久しぶりに読み返そうと思ったら、これが書庫にない。
人にあげたのか、貸したのか、はたまた紛失したのか・・・?
がっくりしたものの、2006年に増補版が出ていると知り、さっそく取り寄せた。
甘蔗珠恵子さんが1987年に書いた手紙の部分も、もちろんそのまま載せられている。

「何という悲しい時代を迎えたことでしょう。
今まで、自分の子どもに、家族に、ごく少量ずつでも、何年か何十年かのちには必ずその効果が現れてくるという毒を、毎日の三度、三度の食事に混ぜて食べさせている母親がいたでしょうか・・・・・・」
この書き出しで始まる。

チェルノブイリ原発の事故が起きた当時のソ連や、汚染がひどかったヨーロッパの母親たちの悲しみに寄り添い、またその憂いから日本も逃れられない現状があること、原発はいらないこと、そのための行動が必要なことなどを、率直に具体的にあふれる熱い思いで綴られている。

「私には二人の子どもがいます。この子たちが成長し、生きてゆくこの地球上に原発のような、こんな恐ろしいものを遺してゆけるでしょうか。
考えてもください。
このままいけばおそらく事故はまた、どこかで起きるでしょうから、放射能まみれのこの地上で、放射能にまみれて生活し、やむなく放射能に汚染された食べものを食べ、地震によってでもいつ爆発するかわからない危険な死の灰を永遠にかきまぜながら、・・・・・」

このように25年近く前に甘蔗珠恵子さんが世に訴えた原発事故が何と、日本で起きた。
福島のことはまだ収束とはほど遠い状況にある上に、また次の事故が起こらないという保証はどこにもない。
一旦事故が起きれば、人間の知恵と技術では解決できないことは今回明白になっている。
人は住み慣れた家や地域を追われてしまったし、放射能まみれの大量の水は海に流されたし、水や野菜、魚、牛乳・・・、大気も土壌も汚染されているし、処理に関わる作業員は被曝を避けられない。

甘蔗さんが言われるように、こんな恐ろしいものを次世代に遺していいはずがない。

チェルノブイリのあと、「まだ、まにあう」と確信していたのに、結局は「書庫に本を並べたてた」だけだった。
それから25年、フツフツと湧き上がる「まだ、まにあうのだろうか?」を押しのけ払いのけ、自分は何をしていくだろう?

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コメント

りんさん、こんにちは。
自分だけならまだしも、子供の将来を考えると
ぼんやりと生きているわけにも行きませんね。

でも、どうしたらいいのだろう。
一番には節電、と無駄なものを買わないくらい。

当たり前のように増えていく新しい家電商品
買えば
それが当たり前になり、ない生活を不便と思う。
経済の発展のためって
不必要なものを開発し過ぎているように思うけれど
誰もそれを不思議と思わない世の中で。
せめて
私は無い生活を当たり前とできる自分でありたいと思います。

投稿: もりゆ | 2011年5月13日 (金) 17時00分

もりゆさん、こんばんは。
「節電、と無駄なものを買わない」
この感覚は大切にしたいですね。 消費社会の中で“使い捨て”から距離を置くのは、実際なかなか難しいことですが。

甘蔗珠恵子さんは、ごく普通の主婦だったそうです。広瀬隆さんの講演を聴き、原発の恐ろしさに衝撃を受けて学習を重ね、原発の恐ろしさを知ってもらうために手紙を書かれました。それがこの本です。原発のことをどのように考えていかなければいけないかが、ストンと落ちます。もりゆさんもぜひ一読を!

投稿: りん | 2011年5月13日 (金) 23時29分

 結局、今の社会に生きている者全員で、「危険とともに生き、危険を後世に遺す社会」 を “選択した” のだと思います。個々人の胸のうちでは自らが積極的に “選択した” という意識は希薄かも知れませんが、エネルギーを大量に消費して作られたモノに囲まれて生き、その生活に安住している以上 (仮にそのことに多少の後ろめたさを感じていたとしても)、“選択した” ことの責任は問われるのではないでしょうか。

投稿: ともしび洞 | 2011年5月17日 (火) 15時38分

ともしび洞さん、こんばんは。お久しぶりです。またお会いできて(?)うれしいです!
おっしゃる通りですね。
でも決して、原子力の恐ろしさを知った上で"選択した"とは思えません。
怠惰から抜け出し正しい知識を得ることに努め、"選択し直す"余地はまだあると信じたいです。
"選択した" ことの責任を果たすためにも、今からでも選択し直しましょう!

投稿: りん | 2011年5月17日 (火) 22時34分

『まだ、まにあうのなら』を知り、出来るだけたくさんの方に紹介したくて地湧社まほろばのHPとともに勝手に紹介させていただきました。

投稿: げんぱつニュース | 2011年6月28日 (火) 20時21分

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