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2011年5月31日 (火)

敬愛する中村哲さんと

中村哲さん ほぼ日曜ごとの夫の実家通いのこともあって、講演に参加したのはほぼ1年ぶり。
1年前も今回も講師は、アフガンで活動されている医師の中村哲さん。
この人の講演は何をおいてでも出かけていきたい!

29日の日曜日は早朝からお弁当を仕立て、夫に実家へと届けておいてもらった。
(とってもおいしそうにできあがっていたので、近いうちにこれもブログにアップしておこう)

会場は大阪市内にある「大阪女学院 へールチャペル」
アフガンコンサート委員会というところが主催で、第1部がコンサート、第2部が講演という構成となっている。
着いた時は既に開場していたが、雨模様ということもあってか、ラッキーなことに一番前の席が空いていた!
よく見える、よく聞こえるといった理性的な理由から前に座りたいのではなく、「少しでも近くにいたい」という感情から。

人がやらないことをやる。
理念を重視しない。「実際に人の命が助かるということ」を重視する。

中村氏の考え方の基本はここにあり、それゆえ医師でありながら(命を救うため)井戸を掘り、自ら用水路まで開かれている。私はそんな中村氏にぞっこん!

講演内容は現地の状況と長期にわたる活動の報告で、1年前と大きくは変わらないが、直接は触れられてはいないものの、東日本大震災のこと(原発のことも含めて)を念頭におかれて話されていることがよく伝わってきた。

「人間は自然を征服できない」
「かつてからあった自然と同居の智恵が失われた」
「自然をコントロールできないが、共存はできる」
「(安全基準など)人間どうしが決めたことなど自然は無視する」

などと、現地での用水路建設や洪水に関してのくだりで、幾度も繰り返された。

話される言葉がすべて心にしみ入っても、またたとえ一番前の席といっても、壇上におられる中村哲さんの存在は遠い・・・はずが、何と質問タイムで質問者がうまくマイクを使えなかったことで中村哲さん自身が壇上を降り、私の目の前を通って質問者の近くへ移動された。
「生(なま)中村哲さんが目の前にいる!」と多少?興奮し、失礼とは思いつつシャッターを切らせていただいた。トップの画像はそのときのもの。

ところが、その日のうれしいハプニングはそれでは終わらなかった。
講演終了後、書籍の販売コーナーにいた私に夫が「中村さんと写真が撮れそうだよ」と言いに来た。
自分にミーハーな部分があることはよく認識しているが、夫にはまったくそんなところはない。
私でも中村氏とツーショットで写真を撮るなど余りにミーハー的で照れるのに、夫がそれを撮る側にまわるなんて!?

中村氏は講演終了後も座席に座られ、依頼されるたび写真に納まったり本にサインをしたりされている。

夫に促されるまま、空いた横の席に座るとすかさずシャッターがおろされる。
中村氏は「フラッシュが光りませんでしたが、いいのですか?」と、気づかいまでみせてくださる。
そしてそのまま会話が続いた。
以前からの知り合いのように?自然体で言葉を返して下さる中村氏は「傲慢」のひとかけらも感じさせない。

講演では、アフガン人の「何もかも失った人の楽天性」に触れられ、「貧乏になっても誇り高く生きることができる」と話されていた。
誇りと傲慢とを取り違えている人はいっぱい知っているけど、中村氏は本当に誇り高く生きている人だ。

そんな中村氏の前では、ひとこと話すごとに自分の中にある(いつも隠しているつもりの)「傲慢」が浮き出されてくるようで、話ができている喜びの一方、恥入る気持ちも湧いてくる・・・。

望めばもうしばらくはお相手して下さりそうだけど、丁寧にお礼をいって(未練を残しながら)引き上げた。

緊張もしていたからカメラのことなんかもう頭になかったが、何と10枚ものツーショットが残されていた。
おかげで中村氏と二人で話をしたことなど、夢としか思えないのに、画像を見ては現実だったと確かめることができている。
「写真があれば喜ぶだろう」の思いから、(決してそのキャラではないのに)ミーハーに徹してくれた夫にはただ感謝!

こんな浮ついた人間はホント中村氏の足元にも寄れない存在だなぁ~、とはわかりつつ、せっかく身近にお話しする機会を得たのだから、次回の講演に参加する時にはホンのちょっとでも今よりマシな人間になっていたい、と思う。

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2011年5月17日 (火)

馬は温かい

3ヶ月前には考えもしなかったことを始めている。
80歳を幾つか越えた女性の方としばしば話す機会があり、その方の趣味は何と?乗馬だった。
馬のことを話されるときの表情、声の調子が実に晴れやか。

「馬に揺られていると、心と胸のあたりがスーとする」
「もうかわいくてかわいくて、子どもよりかわいい」
「馬はあったかくて、触っていると心までポカポカしてくる」

寡黙な方が、とつとつと語られるその言葉ひとつひとつに魅入られ、生まれて初めて「馬」というものに興味をもった。

その気になったときの私の行動は早い。
さっそく体験乗馬に参加して馬との相性が「最悪」でないことを確認したのち(やっぱり少しは迷ったけれど、乗馬クラブの会員となった。

なぜ突然そんな心境になったのか、自分でもなかなか説明がつかない。

でも、馬のことを聞いたのが、筋を通した生き方をされてきた(よくは知らないがそんな印象を受ける)あの老婦人でなかったら、あるいは人生観をも大きく変えたあの東日本大震災が起きていなかったら、まるでたぐり寄せられるように「乗馬」に近づくことなどなかったことは確かだと思う。
つまるところ「縁」があったのだろう。

(もちろん、やっと子どもたち全員が自立したこと、乗馬クラブが自転車で通える位置にあったことなど、現実的な要因も大きい。)

さて、その馬だけど、4回目の騎乗でやっと「心と胸のあたりがスーとする」という感覚がちょっとだけわかりかけてきた。

今まではおとなしい馬ばかりだったから(そりゃ、乗馬クラブの方も年配者にいきなり、やんちゃな馬をあてがわないだろう)なんだか乗せてもらっている感じ。
でも前回の馬は駆けてくれたから、馬上の私も駆けた!
馬が走るその振動に身をまかせ、といってもまだ上手にバランスを取ることができないから、不器用に身体を上下させながら馬上で風を切った。
「あぁ、落っこちる、落っこちる!」と思いつつ、駆ける馬が刻む(機械的でない)動きのリズムに身体をゆだねると、一瞬心と身体が解き放たれるよう。

そう、残念ながら今の技量では、駆けるのはほんの一瞬。
長く続けるとホントに落っこちそうなので、すぐに「ハイ、たずなをゆるく引いて!」とインストラクターから指示がでる。

「かわいくてかわいくて」ほどの思いは・・・まだない
前回の馬は勢いがあったのは良かったけど、噛む癖があったから少々ビビッたし・・・。

馬の横に立つと(馬の大きさにもよるけれど)、たいてい私の顔は馬の首あたりにくる。
顔をなぜたり首をトントンたたいて、馬に挨拶やお礼は欠かさないのに加えて、つい頬を馬の首にすり寄せることをしてしまう。
老婦人が言われたように、馬は本当にあったかい。
柔らかい毛を通して伝わる温かさは、こたつやゆたんぽのものとはまた違う。
あたたかい命そのものに触れている感覚。

こうして馬と共に過ごす時間は、私の生活の一部になりつつある。(月に3時間足らずだけど・・・)
何十年も生きてきて1回もその気にならなかったことに、ふと心誘われ、はまっていく不思議。

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2011年5月12日 (木)

20数年目の『まだ、まにあうのなら』

年末に娘が帰ってきていたとき、書庫をのぞいて「原発関連の(古い)本がいっぱいあるなぁ」と言った。

チェルノブイリの事故で原発の恐ろしさを実感し、関連本を読み始めた。
その後ずっと継続して関心をもっていたはず・・・なのに、このたびの福島のことがあっていつの間にか自分が無頓着になっていたことを思い知らされた。

まだ、まにあうのなら 当時、想像力が乏しい私にも原発の恐怖をまざまざと伝え、原子力が絶対に人間と共存できないことを悟らせてくれたのが、地湧社の『まだ、まにあうのなら』という小冊子。
甘蔗珠恵子(かんしゃたえこ)さんという2人の子どもの母親が書いた長い手紙で構成されている。

久しぶりに読み返そうと思ったら、これが書庫にない。
人にあげたのか、貸したのか、はたまた紛失したのか・・・?
がっくりしたものの、2006年に増補版が出ていると知り、さっそく取り寄せた。
甘蔗珠恵子さんが1987年に書いた手紙の部分も、もちろんそのまま載せられている。

「何という悲しい時代を迎えたことでしょう。
今まで、自分の子どもに、家族に、ごく少量ずつでも、何年か何十年かのちには必ずその効果が現れてくるという毒を、毎日の三度、三度の食事に混ぜて食べさせている母親がいたでしょうか・・・・・・」
この書き出しで始まる。

チェルノブイリ原発の事故が起きた当時のソ連や、汚染がひどかったヨーロッパの母親たちの悲しみに寄り添い、またその憂いから日本も逃れられない現状があること、原発はいらないこと、そのための行動が必要なことなどを、率直に具体的にあふれる熱い思いで綴られている。

「私には二人の子どもがいます。この子たちが成長し、生きてゆくこの地球上に原発のような、こんな恐ろしいものを遺してゆけるでしょうか。
考えてもください。
このままいけばおそらく事故はまた、どこかで起きるでしょうから、放射能まみれのこの地上で、放射能にまみれて生活し、やむなく放射能に汚染された食べものを食べ、地震によってでもいつ爆発するかわからない危険な死の灰を永遠にかきまぜながら、・・・・・」

このように25年近く前に甘蔗珠恵子さんが世に訴えた原発事故が何と、日本で起きた。
福島のことはまだ収束とはほど遠い状況にある上に、また次の事故が起こらないという保証はどこにもない。
一旦事故が起きれば、人間の知恵と技術では解決できないことは今回明白になっている。
人は住み慣れた家や地域を追われてしまったし、放射能まみれの大量の水は海に流されたし、水や野菜、魚、牛乳・・・、大気も土壌も汚染されているし、処理に関わる作業員は被曝を避けられない。

甘蔗さんが言われるように、こんな恐ろしいものを次世代に遺していいはずがない。

チェルノブイリのあと、「まだ、まにあう」と確信していたのに、結局は「書庫に本を並べたてた」だけだった。
それから25年、フツフツと湧き上がる「まだ、まにあうのだろうか?」を押しのけ払いのけ、自分は何をしていくだろう?

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2011年5月 6日 (金)

ナターシャ・グジーさんのCD付きブック「ふるさと」

もしかして削除されちゃったかな? と思いつつ久しぶりアクセスしたら「あった、あった!」
「ココログフリーは1年間更新なしで消滅」との規約改定があったように記憶しているのでどうやらぎりぎりセーフ。

ストップしたのが5月、こうして久しぶりに向かい合うのも同じく5月。
長く濃い1年だった。家族のことで胸ふさがるようなコトが去年の4月に始まり、そしてそれは始まったときには想像することなどできなかったような最良の結果で落ち着いた。

心覆う暗雲がほとんど晴れかけた頃、あの東日本大震災が起きた。
映像を見て、あるいは記事を読んで幾度涙を流したろうか。
むろん悲しみの涙ばかりではない。立ち上がろうとする人の強さにうたれ、手をさしのべる人の優しさに心震えて、そのたび涙は落ちた。

そして近頃は、ウクライナ出身のパンドゥーラ奏者・歌手、ナターシャ・グジーさんの本「ふるさと」のページをめくっては涙腺を緩ませ、その澄み切った歌声「いつも何度でも」を聴いては、また涙を頬に伝わせている。
 
ふるさと ナターシャさんふるさとには森が広がり、花が咲き乱れていた。
その地で家族と共に平和で豊かな日常を過ごす日々が、ある日ある時を境に激変する。
それが25年前に起きたチェルノブイリ原発事故。

本にはCDに収められた5編の歌詞、ふるさとや家族の画像、イラストなどと共に、ナターシャさんの思い出と想いが綴られている。
「いつも何度でも」はその5曲の内のひとつ。

もし私が地震で大切な家族を失ったなら、おそらく1月経っても「復興」や「復興を口にする人」に背を向け、ただ悲しみに浸っている自分であると思う。
このたびの東日本大震災でも、そんな人がいっぱいいることだろう。
でも、そんな悲しみに塗り込められた硬いシコリを少しでもとかす深いやさしさとあたたかさが、ナターシャさんのこの歌にあるような気がする。

そしてまた、深く苦しい悲しみを分かち合う力もこの歌にあるから、聴くと涙があふれる。

♪ 呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう ♪

「悲しみに留まっていたい」と心閉ざす人たちに、どうか希望の光がさしこみますように。

*You tubeでも聴けます。

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