2007年5月14日 (月)

憲法は変えたくない!

とうとう成立しちゃった・・・。国民投票法。
これからはさらに性根を入れて憲法のことを考えていく必要あり。
自分だけでも考えて、そして周りにも広げて。

今の新しい職場では、その「学習振り」でどうやら注目を浴びているらしい。(実力がないから焦っているだけなんだけど)
目新しくわかりやすいテキストも各種持ち込んでいるので、若い子ものぞきにきて話がはずむ。もちろんコピーは自由にとってもらっている。
パソコンの知識やスキルこそ彼、彼女らに及ばないけれど、豊富な人生経験?でそこそこ存在感もでてきたかな・・・。
実はこの調子で、タイミングをみながら憲法の話などもさらっとしてみたいなぁ、と目論んでいる。
「変える、変えない」より、憲法自体の意味合いや条文を知らないことがまずは問題。
ちゃんと読んだ人で「変えたい」って言う人を見たことがないし・・・。

この前の土曜日にテレビをつけると「ブロードキャスター」という番組をやっていて、ちょうど「お父さんのためのワイドショー講座」というのがあった。
その週、ワイドショーで長い時間放送されたテーマをランクづけで紹介している。ちょっと期待したけれど・・・ベスト10の中に国民投票法案や憲法に関するものがまったくなかったのは当たり前・・・?

じっくり日本国憲法そのものや関連本を読むのも大切だけど、何より憲法は身近なもの、という感覚があってほしい。
ニュースはもちろん、特集やワイドショーでも核心をきちんと押さえた上で、親しみやすい憲法関連番組がもっとあってもいい。

見たことはないけど、松本ヒロさんという人がパントマイムで風刺コント「憲法くん」というのを演じられていて好評とか。

「憲法九条を守ろうという市民が集まった九条の会は、六千もある。ぼくは全国の集会にひっぱりだこなんですよ。もうガッポガッポで、寄席の人からは”松本ヒロは九条を食い物にしている”といわれますが、戦争を食いものにするよりはいいでしょ・・・」
といった調子の一人芝居らしい。

う~ん、見たいなぁ・・・。

まぁ自分にはコントはちょっと無理だけど、職場とか自分の周りで憲法のことも話題にしてみよう。自分の考えの「押し付け」にならないよう、気をつけながら。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2007年2月23日 (金)

「赤ちゃんポスト」と呼ばないで

厚生労働省が設置を認める見解を示したことで、再び報道に上がってきた「赤ちゃんポスト」。
それは、昨年に熊本市の慈恵病院が「尊い赤ちゃんの命を救いたい」という主旨から申請を出していた、保護者が育てることのできない新生児を預かるシステム。

朝から新聞紙上やラジオから伝えられる「赤ちゃんポスト」という言葉を聞くたび心が騒ぐ。
なんという無神経な表現だろう。

慈恵病院によるネーミングは「こうのとりのゆりかご」であったはず。
いつの間にかメディアでの報道は、「通称『赤ちゃんポスト』」といった並列表記まで省略し、「赤ちゃんポスト」一色。
その表現に感じるのは、言葉を大切にして、ことの本質を伝えるというメディアが本来担うべき真摯な姿でなく、煽り。

郵便物を投函するときのように、ポイとほりこみ人の手に委ねるという安易さばかり浮かびあがらせ、本質を考える以前に反発や揶揄を感じさせる。
慈恵病院が、何より大切とした「命の重さ」がまったく伝わらない。
育てることができなくて親も赤ちゃんも窮地に陥り、ときには命まで奪われる現状にあって、慈恵病院においてもぎりぎりの思いでの決断であったはず。

「ポスト」という軽いイメージのまま一般に定着することこそ、危惧されている「安易に『赤ちゃんポスト』を利用する」ということにもつながるのではないだろうか?

他方「こうのとりのゆりかご」という言葉。
命の神秘さ、赤ちゃんにこめられた想いがしっとりと伝わってくる・・・。
だいたい、そもそもがこのネーミングであったのだから、メディアはこれで伝える義務を負わないのだろうか?
設置の是非を論じる必要を説きながら、まず偏ったイメージを植えつけてしまうやり方に怒り!

実際に設置されることになれば、「赤ちゃんポスト」にいた子が育っていく。
ルーツを知らせる必要が起きた時(または知ってしまった時)
「あなたは赤ちゃんポストにいたのよ」とその子に伝えるのか?
そうではなく「こうのとりのゆりかごで、すやすやと眠っていたのよ」と伝えてやりたい。

【参考】
このシステム発祥の地、ドイツではBabyklappe(ベービークラッペ)と呼ばれている。クラッペとは、開け閉めする為のものの総称。
郵便ポストのフタもクラッペ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年2月14日 (水)

「六カ国協議」のことを書いてみる

未だ「女に政治のことはわからん」と言われることもあるけど、ホントにわからん、むつかしい・・・。

女同士寄るとおしゃべりは尽きない。たわいもない話ばかりのようでも、
たとえば子どもの話題から
「ああ、そんな考え方もあんねんなぁ」
「知らんかったわ~、ええこと聞いたわ~」と大いに示唆を受けたり学び合う、ということがある。
でも政治の話はめったに出てこないから、そんな場で磨かれることもなく疎いまま。
平和や環境のこと、大切な家族との日々の営み、みんな「政治」抜きでは考えられない、ということはわかっているのになぁ・・・。

とはいえ、そんな私でも今回の六カ国協議の結果にとても喜んでいる。
理由はいろいろあるけれど、まずこれが外交、「話し合い」で得た成果であること。
外交があり、その成果がある限り「武力や戦争」のカゲを感じなくてすむ。

それから北朝鮮へのエネルギー支援、そして貿易制限解除などの見通しができること。
先の女同士の会話でも「北朝鮮はとんでもない国やな~」という話は出る。確かに信じられないような体制をとる国であると思う。でもだからといって、その国に生きている人たちのことを「あんな国に生まれてんから、しゃぁないわ~」と切り捨てることはできない。
そもそも同じアジアの隣国、仲良くできれば一番いい。互いに信頼関係が築ける可能性をほんのホンノ少しでも信じていたい。
「とんでもない」首領、金日成は抗日闘争から登場してきたことも忘れられない。
(もちろんかといって、拉致のような卑劣なことは絶対に許せないけど)

それからやっぱり、北朝鮮が核の放棄に踏み出したこと。
核兵器の廃絶は切なる願いながら、世界中にあるその量を考えるだけでクラクラしそう。それでも増えるより減る方が絶対にいい。
ましてそれがすぐ近くの国にあるものなら尚更のこと。

6つの国にはそれぞれの思惑や裏もあるのだろうけど、合意をみたことが私は素直にうれしい。
あとは更なる外交力、持続力で合意項目の確実な履行にこぎつけてほしい。
そして日朝の直接協議では、何としても日本の外交力に期待したいところ。

とまぁ、
「こんな風に私は思うけど、みんなはどう思う?」と気楽に女同士で語ることができたらなぁ。
「そりゃぁ、アンタ考え甘いで~」と一斉に返ってくるとしても・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

NHK番組訴訟に思う―ささやかな抗議

若い頃は、納得できないものには大いに抵抗していたのでNHKの受信料も払っていなかった。
「契約」した覚えもないのにテレビ購入で自動的に「契約済み」とされることへの反発だった。また実際にテレビはほとんど見ていなかった。
集金人は幾度も来て、そのつど人が変わり「押しの強い人」、「弁の立つ人」など相手も手を変え、品を変え、という感じだった。
どのような人が来ても、明確な意思での不払いなので「押し」でも「弁」でも負けなかった。

数年経って、確かに自分にあったはずの受信料不払いに対する信念のようなものがいつの間にか薄くなっていることにふと気付いた。NHKの番組を見る時間も増えていた。
「これでは、ただの出し惜しみではないか?」などと思えてきて、自分が払わないことの方に納得がいかなくなり、それ以降は払い続けてきた。

ところが2005年1月に発覚した(政治家の圧力による)番組改ざん。2001年1月放送の「慰安婦」問題を扱った「ETV2001~問われる戦時性暴力」でのこと。
ムラムラと怒りがこみ上げ、即抗議手段に出た。新たな「明確な意思」による受信料の不払い。NHKに電話をかけて抗議の主旨と今後の不払いを通達。(口座引落の中止)

その後この訴訟の行方には随分関心を払ってきた。

そして出た29日の高裁での判決。
原告の人たちの笑顔がまぶしい。

真っ向から戦いを挑まれたバウネットジャパンの方々はすばらしい。
内部告発をされた方の勇気もすばらしい。

まぁ、自分にできるのは不払いをもう少し続けることかな、NHKは懲りずに上告、などと言ってるのだもの。

でも・・・身近な知り合いにさえこの「不払い」も中々わかってもらえない。
「へぇ~、自分は正直やからテレビ見てるのにそんなこと、ようせんわ~。お金たまるな~」などと言われ凹むことがある・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2007年1月23日 (火)

いたましいー宝塚カラオケの火事

この20日に兵庫県宝塚市のカラオケ店で起きた火事。3人もの若い命が奪われた悲しいニュース。
この若者たちを心から哀悼するものではあるけれど、業務上失火と業務上過失致死で逮捕された女性店員の人のこともまたとても気にかかる。
ラジオでの一報、「泣きながら女性のアルバイト店員が、『炎が燃え上がっている』と店内の客に知らせた」で感情移入してしまったのかもしれない。
「泣きながら・・・」、まざまざと目に浮かぶようなその時の衝撃と狂おしさは数日経た今、悲嘆と絶望に変わっているのだろうか。

加熱している天ぷら油から目を離すという重大な過失を犯したものの、その結果として背負わなければならなくなったものは余りに大きい。
同じミスをしても、きちんと防火安全対策をとっている店で働いていたならその人の現在と未来は全く違ったものになっていただろう。
あるいは経営者不在の時には一人で客の応対、調理、清掃などすべてを担うという無理な体制でなければ、そのミスはなかったかもしれない。
それは、過酷な労働条件による過労や睡眠不足から人身事故を引き起こすケースにも通じるもの。

十九歳や二十歳くらいから、本人の希望であったのかどうか「アルバイト」の身分で働き続け、数分の油断が残させた一生の悔い。
犠牲者とその家族、そしてまた自分の家族をも巻き込んで。

この女性店員の責任と己への呵責は、生涯逃れようもないだろうけれど、責める気持ちはちっとも湧いてこない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)