2009年11月12日 (木)

『母なる証明』

昨日、ポン・ジュノ監督 『母なる証明』を観た。
それほど多くない入場者のほとんどが女性(私も含めて中高年ばかり)。
これは女性割引のあるレディスデーだからというだけではなく、「殺人事件の容疑者として逮捕された息子(演じるのはウォンビン)を助けるために、母親が懸命に努力する」というあらすじが女性の気持ちに響くためか・・・?
母なる証明  もしそうであれば観賞者たちには裏切られた思いがあったかもしれない。
あらすじからイメージされるような「落涙をこらえ切れない感動作」ではなく、ミステリ仕立てで人の心のひだ深く分け入り暗く重い部分を描き出す作品だった。

冒頭、枯れた草原に一人きりでいるいわゆる「おばさん」風の中年女性(「韓国の母」といわれる大女優キム・ヘジャ)。
彼女が(カメラに目を据え)音楽に合わせ踊り出す。
「なに??? 何が始まる?」
と狐につままれたような感覚が消えない内に、続いて(気弱な私には)正視しづらい映像。
屋内で裁断機を使い乾燥薬草を切り続けている先の女性、道路をはさんだ向かい側を気にして、視線の先は常にそこにある。
「ガシャ」という刃が薬草を切り落とす乾いた音、おろそかになっている手元、少しずつ短くなっていく薬草に彼女は二度三度と刃を下ろしていく・・・。

緊迫した場面でも想像上の怪物がベースなので言わば気楽に観ることのできた前作『グエムル-漢江の怪物』(これでこの監督のファンになった)とは、のっけから趣きが違う。
「母の愛」をテーマにしながら、善男善女は描かれないし美男美女も登場しない。(ウォンビンは美形だけど「かっこいい」役ではない)描写はリアリズム。

殺される女子高校生。逮捕される知恵遅れで記憶にも障がいがある青年。息子の為なら常軌を逸する行動も厭わない母。
そこにからむすべての登場人物は、「端役」など誰もいないと感じられるほど、物語において重要な個性を放ち、またそれにふさわしい者が演じる。
冒頭の枯野を始め、画像に上げた村の墓地など、風景も印象に残る。

サスペンスでありストーリーを書くことははばかれるが、後半の展開は意表をつかれるし、それが冒頭の「なに???」のシーンにもつながっていく・・・。
この作品のもつ凄みは、むしろ女性より男性が引き込まれるのかもしれない。
とはいえ、私はもう今からポン・ジュノ監督の次の作品を楽しみに待っている。

*公式サイトはこちら

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2009年2月 8日 (日)

『懺悔』を観る

「ペレストロイカの象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」と肩書きされた映画が大阪十三「第七藝術劇場」で上映されている。
グルジアのテンギズ・アブラゼ監督による『懺悔』。
1984年に製作され86年にグルジアで公開、その翌年にモスクワで公開。
日本での上映はなかった。
1987年カンヌ国際映画祭審査員特別大賞を受賞している。

かつて市長として権力を振るっていた男ヴァルラムが死に埋葬されるが、その遺体が3度までも掘り起こされるという事件が起きる。
犯人はケテヴァンという女性。彼女の両親は、かつてヴァルラムにより粛清、殺害されていた。
法廷で過去を振り返る形で、「独裁者」(スターリンでもありヒトラーでもあるような・・・)を戯画化したようなヴァルラムとその取り巻きによる無差別な粛清が明らかにされていく。

才能ある独裁者ヴァルラム、息子アベルは父が行った弾圧を「国と時代」の為と受け入れている、事実を知った孫のトルニケはそんな父が許せない・・・。

詩的、幻想的に描きながら真実を照らしていく手法は、印象的で眼と心に食い込み、観応え十分。
鑑賞中ふとギリシャの監督テオ・アンゲロプロスの作品を思い起した。

公式サイトには昨年来日した主演俳優アフタンディル・マハラゼさん(ヴァルラムとその息子アベルの二役)のインタビューもある。

Q:今この時代に公開される意味は?
A:非常に重要だと思う。でも残念なことに、20年目に作られた作品を今観ても、古く感じないというのは、今も昔も状況は変わっていないということでしょう。

法廷でケテヴァンは「私が生きている限り(ヴァルラムを)墓地で眠らせません。」と言い放つ。
「死」はすべてを「浄化」し人々が死んだ者の罪や過ちを忘れ去ることを許すものではなく、死んでも尚負い続けなくてはならないもの、人々が忘れてはならないものは、あると思う。

「第七藝術劇場」に貼られていたポスター、いかにも昔の映画風のところが気に入り(上映終了後にでももらえないか?と)窓口で聞くと、「販売しています」とのこと。
目を引く人気ポスターということなのだろう。
さっそく部屋に飾って喜んでいる。大きな日本語がじゃまなのが残念。
懺悔

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2008年12月 6日 (土)

『青い鳥』

ブログでもエントリした重松清さん著書の『青い鳥』が映画になったことを聞き、さっそく鑑賞した。

監督は中西健二さんという方でこれが初作品だとのこと。
いじめによる自殺未遂があった中学校に臨時教師として赴任してきた吃音の村内先生と、生徒たちとの交流を描く。
村内先生役は阿部寛。
「かなりの吃音で髪が薄くてちょっと貧相なおじさん」を阿部寛がどう演じるのか?も楽しみのひとつだった。

青い鳥
原作では物語の展開に無理がなく、ぐんぐん惹き込まれていく。
そして村内先生は、「大切なこと」をひどくつっかえながらもしゃべる。
今の中学校という現場や「いじめ」の実際を知らない者でも、この本から感じ取れるものは「確かなもの」としての手応えがあった。

残念ながら映画は少し表現不足ではなかったろうか?
長まわしや沈黙が多い。
確かに阿部寛の静かなたたずまいと大きな眼は「何か」を語る存在感はあったけれど、それを補うものが、映像であれ言葉であれもう少し必要ではなかったか?
原作にはない、女性教師の登場や村内先生の屋上での場面などもリアリティを薄くさせている要因だったように思う。

とはいえ「先生、誰かを嫌うこともいじめになるんですか?」に始まる大切な問いには原作通り丁寧に応えているし、阿部寛も期待以上に自然体で好演。
決して好きな俳優というわけではなかったが、ちょっと好きになってしまった。
この映画ではもう少し言葉が欲しいと思ったけれど、個人的には寡黙でやさしい眼をした人に惹かれる。

『青い鳥』公式サイトはこちら

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2008年8月 7日 (木)

『闇の子供たち』を鑑賞する

原作を読んだときは、テーマの重さと描写のリアルさにたじろいだ。
特に児童買春に関わる生々しい描写では吐き気まで起きた。

登場するタイの子ども達は、「客観的な立場で読む」だけでも相当な覚悟を必要とする現実の真っ只中に生きている。
その状況と背景、そして子ども達そのものを映像としてどのように描き出しているのか?
阪本順治監督の映画を観たことがないこともあって、作品イメージが全くつかめないまま映画館へ足を運んだ。

脚本も阪本順治監督。
原作に基づきながらも独特の脚色が加えてある。
特に「闇」を追う日本人新聞記者、南部(映画では江口洋介が演じる)の描き方が大きく異なる。
映画では記者自身を「児童性愛者」の立場とした。
(これは完全なネタ明かしです。まだご覧になっていない方、ゴメンナサイ)
その為に、この映画は原作とはまったくベツモノとなってしまった(ように私は感じた)。

ホモセクシュアルとは異なり、「児童性愛」というのは一方的なもので、児童にとっては人権侵害や虐待となる。
(もっとも私はこの「児童性愛」自体が未だよくわからないし、実際にそんな行為ができる大人が存在していることも信じられずにいる。)

子どもが虐げられるその行為は、言い訳などみじんも許されないだろうに、南部自身の葛藤とその結末が描かれていることが「大人側の言い訳」に感じられてしまう。

原作ではタイの児童売買の実態は「よその国のこと」ではなく、私たち一人ひとりにも関わりのあることだと十分理解できる。
時間も限られた映像という手法において、その脚色は「身近な問題」と位置づける効果をねらったものだろうけれど私には受け入れにくいものだった。

それでも難しいテーマに取り組んだ監督の意気込みは賞賛に値するだろうし、性的虐待など子どもが演じなければいけない場面の演出などもよく配慮がなされていると思う。
「微笑みの国、タイ」という観光地のイメージだけであったものが、この映画によって違う側面を知るという人も多いことだろう。
できるなら映画鑑賞後でも前でも、ぜひ原作も読まれることをお薦めしたい。
但し、原作の(特に前半)赤裸々な描写は読み続けるのがかなり辛い。
(映画でも目をそむけた箇所は数回あった。)

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2008年7月14日 (月)

『靖国 YASUKUNI』を駆け込み鑑賞

うだるような暑さの毎日に少々バテてはいるけれど、仕事はもちろん、やりたいこともあれこれとやっている。
でも、その記録の意味合いもあるブログまではなかなかエネルギーが回らない・・・。
ちょっと間があいちゃった。

久しぶりのエントリは、『靖国 YASUKUNI』 【李 纓(リ ・イン)監督】 のこと。
終了間際に何とか観ることができた。

全国で唯一、右翼の「抗議」を恐れず(いや多分恐れながらも)予定通りの上映を決めた「第七藝術劇場」に敬意を表する意味でも、またテーマが「靖国神社」であることでも観ておきたい作品だった。

映像表現である映画で、どれほどの深さで、あるいはどのような切り口で「靖国神社」に迫っているか?というのが期待どころ。
う~ん、結果は(期待ほどには)「迫っていなかった」というところか・・・。

それにしても「敗戦記念日」の靖国神社はさながら軍国ショー。
神社の境内で、延々と繰り広げられていることに今更ながらあきれる。
我が家も自動的に某神社の氏子となっているが、もしこのような行為が地元の神社で行われるなら即非難(もちろん私だけではなく)になるはず。
靖国ではそれが許可されている、というよりむしろじゃまされないように守られているなんて・・・。

「望まぬ戦いに徴用され、日本国民でもない父親(肉親)を合祀からはずせ」としごく当たり前の要求をしている韓国の李熙子(イ・ヒジャ)さんや台湾のチワス・アリさんたちも登場していた。
それぞれ『あんにょん サヨナラ』、『出草之歌』という優れたドキュメンタリーで、いかに彼女たちにとっても「靖国神社」が理不尽な存在であるかが描かれていた。

内容的には、やはり日本芸術文化振興会による助成金に関する物議や右翼による抗議活動の対象になるようなものではないだろう。
それでもすぐさま上映中止や延期を決めた映画館が多かっただけに、『あんにょん サヨナラ』や『出草之歌』が、そうした騒ぎに巻き込まれることなく上映され、鑑賞の機会を得たことは今更ながらうれしい。

さて、何はともあれタブー視されているかのような「靖国神社」を描いたこの作品は無事公開にこぎつけ、思わぬ宣伝効果もありロングランとなった。
切り口として、刀匠を設定したこともいまひとつ私にはわかりにくかったけれど、また違う表現による作品が続いてくることを期待したい。

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2008年6月 3日 (火)

『ふるさとをください』

「心」は自分のものでありながら、なかなか思うように操ることができない。
「考えないでおこう」と思うことも「考えてしまう」し、制御し切れないままの感情を人にぶつけてしまうこともある。
そんなやっかいな「心」にもし病があったらどれほどか不安だろう、と推測することはあっても、精神に障害を負われた人たちのことを改めて考えることをしてこなかったように思う。

誘われて参加した映画会、『ふるさとをください』ではその機会を得た。
製作:きょうされん(旧称:共同作業所全国連絡会)
監督:富永憲冶
脚本:ジェームス三木

ふるさとをください あらすじ (公式サイトより)
片倉千草は大学院を出て県庁に就職。父の雄二郎は小売店を営み、地域の世話役として活躍。母の邦子は父を支え、弟の健太はサッカー好きの高校生。

その頃、町に障害のある人たちが集団で引越して来て、クリーニングとパン製造の共同作業所を始めたという…。町の人々は警戒の目を光らせ、町内会役員の父も、まとめ役として反対運動の先頭に立つ。
そんな折、千草は、共同作業所の若い職員である内藤明彦と知り合う。彼の案内で、初めて障害のある人たちの働く姿に接し、共感する千草。一生懸命な千草だが、反対運動を進める雄二郎の態度は、あくまでも頑なである。
・・・・・・・・・

大路恵美、ベンガル、藤田弓子、中山仁といった役者の個性が光る。
実際に和歌山にある施設「麦の郷」がモデルになっているよう。
余りにハッピィエンドだし「優等生」の入所者ばかりが目立つのは少々気にかかるけれど、骨子はしっかりしているし「笑いと涙」の見やすい作品に仕上げている。
何より、「心の揺れ」のことや、「障害」を負ってしまった人たちが退院してもなお社会に居場所のない現状、そして「共生」という意味合いなどを知ることができる。

上映活動も精力的にされているよう、お住いに近い会場があればぜひご鑑賞を!
最後にひとつのシーンだけちょっと紹介。
ベンガル演じる雄二郎が、作業所にやってきて所長役の藤田弓子私と対峙する。

「私らが生まれ育った大事な故郷に、よそもんが入ってきてひっかき回されたらかなわん、分かりますか?」
「みなさんが故郷を大事にするお気持ちはようわかります、恐れいりますが、そのふるさとをほんの少しだけ、分けてもらえんでしょうか?」
「分ける?」
「ここにいてる人たちには、帰るふるさとがあらへんのです」
「…」

理解しあって、分けあって、支えあってこその社会なのだろう。
地域も、日本も、世界も。

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2008年5月18日 (日)

『光州5・18』を観た

1980年5月の光州事件、当時深い関心をもって報道を追っていた記憶がある。
それも今となってはうろ覚え。 
というより当時から具体的なイメージはもち得ていなかったのだろう。
今回『光州5・18』(キム・ジフン監督)を鑑賞したことによって初めて、韓国の光州とそこに生きる人たちに何があったのか、ということの一面を知り、感じることができたように思う。

純朴で心優しいミヌ(キム・サンギョン)と優秀な高校生の弟ジヌ(イ・ジュンギ)の両親は既にいない。ミヌはタクシー運転手として働き家事もこなしながら、弟が名門ソウル大学に合格することを願っている。
またミヌは美しい看護師シネ(イ・ヨウォン)に思いを寄せている。
物語はこの3人とシネの父、元軍大佐パク・フンス(アン・ソンギ)を軸に、穏やかな日常生活とそこからの暗転、市民による戒厳軍に対する武装闘争へと進んでいく。

光州市民は道庁倉庫に大量の武器があったことにより武装するが、一般市民が武器を取る過程と必然が理解しにくい。映画の描写不足ということはあるだろうけど、徴兵制(兵役経験)のある国では武器をあやつれる人が多い、ということも関係しているのだろうか?
いつでもどこでも武器の数に比例して「死」はある。
映画でもかなりの迫力で銃撃戦が描かれるが、市民にも軍にも膨大な数の犠牲者が出ている。(未だに正確な数値の発表はないとのこと)

「映画の森」サイトにキム・ジフン監督のインタビューがある。(一部下記に抜粋)
********************
──韓国内では多くの観客を動員した。評価は。
 ニつの反応があった。実際に事件を体験した人からは「表現が甘いんじゃないのか」という反応。事件を知らない若い人からは「こんな事件だったとは知らなかった」という反応だ。確かに資料を見ると実際はもっと凄惨な事件だった。だが、まずは事件のことを知らない人にも知ってもらうことが目的だったので、過激すぎる描写は避けた。エンターテインメントに偏りすぎているという批判もあった。しかし、この作品はドキュメンタリーではない。感性に訴え、映画を見て何かを感じたら、本やインターネットで調べ、正しい歴史認識を持ってくれたらいいと思う。
********************
事件そのものの詳細な知識がない私には、背景描写がもっと欲しかったし、軸となる人物の行動もどこか唐突に感じられ感情移入しにくい。(イ・ジュンギ演じるジヌはとても良かった!)
確かにエンターテインメント性を強く感じるし(「お笑い」シーンが長々と続くのは少々辟易)、事件を一面的にしか描いていないとも感じる。(おそらく武装や闘争に反対の市民も多かったと推測されるが、それは描かれていない)

監督は光州事件を体験した人ではないし年齢も若い。その感性で意欲的に作り上げた作品ということなのだろう。
監督が言われるように「まずは事件のことを知らない人にも知ってもらうことが目的」は、韓国でのヒットで果たしたよう。
日本でも、たった20数年前に隣国でこのようなことがあったことを知る為にもたくさんの人に見てほしいと思う。

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2008年4月28日 (月)

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

観たい映画がたくさんある中で、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を最優先とした。
「社会変革」を目指して鮮烈に生きた若者たちと、その時代背景をぜひとも知りたかった。

50%を超えたという「あさま山荘」突入の実況報道番組に見入っていた1人でもある。
大学入学そうそうには、構内で赤いヘルメットをかぶりマスクをした一群が真横を駆け抜けていき、度肝を抜かれた。
それでいて、目の前で見えていても、自分にとっては「あさま山荘」のテレビ中継と同じく、まるでドラマの世界のような感覚しかなかったことを覚えている。
当時は、同じ世代の彼、彼女らが何を考え何をやろうとしているのかなど、全く関心がない生活をしていた。

映画は大まかにみて3部構成。
ニュース映像をたくさん使いながら激動期の世界を描いていくところから始まる。
1960年の安保反対闘争、ベトナム戦争、ケネディ大統領の暗殺、中国の文化大革命、パリの5月革命、そして日本の学費値上げ反対闘争や三里塚の戦い・・・。

世界的な時代のうねりの中で社会正義を求める若者たちが活動に身を投じ、党派内闘争を経て連合赤軍が結成されていく。
その経過は、具体的でわかりやすい。
12人が犠牲となった「総括」も克明に描かれる。

そして、いきついたところが「あさま山荘」での抵抗戦。
若松監督所有の別荘を実際に壊しながら撮影されたとのことであり、リアリティに富む。
かつて見たテレビ中継を思い出させるが、そこではうかがい知ることができなかった内部の状況を連合赤軍側から描き出す。

徹底検証に基づいて制作された190分は、集中力を途切れさせず見応えのあるもの。
若松監督は言う。
「あの時代、彼らは何に怒り、立ち上がり、全てを捨てて闘おうとしたのか、権力側からの視線でなく、実録としての作品を残す」
その思いは確かな形として残ったに違いない。

それでも・・・やはり私には相変わらずわからない。
「武器によるせん滅戦」による勝利(目的達成)の目算はあったのか?
なぜ、「総括」と名を打った仲間への余りにも凄惨な暴力を為し得たのか?

同じ時代に生きていながら、「連合赤軍」の若者たちに思いを馳せたことはなかったけれど、遅ればせながら、やっと少し考え始めた。
いまのところ、「狂気」としかとらえることができないものの、ではなぜ社会正義を目指していたはずの彼らが、正義とは程遠いその「狂気」に陥ったのか・・・?
それは、たとえ「実録」の力作であっても、鑑賞すればわかる、といった安易なものであるはずもない。

学生運動とは全く関わりなく過ごしたけれど(衰退期ではあった)、もし友人がそのメンバーであり誘われたなら自分もその「狂気」とは無縁であり得た、という自信はない。
そんな風に考えてしまうほど、映画で見た彼らは身近な存在のようにも感じた。

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2008年1月23日 (水)

『サラエボの花』

なかなか日常のリズムを取り戻せない中、(懸案事項をちょっとほっておいて)思い切ってレディスデーを狙って映画鑑賞へ。
作品は『サラエボの花』
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
2006年ベルリン国際映画祭にて金熊賞受賞

【公式サイトより】
ボスニア紛争から10余年、かつての戦火の街サラエボで、母と娘の今と未来を描く、愛についての物語。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ、グルバヴィッツァ地区-。
かつて母はお腹に宿った生命を怖れていた。
しかし生まれてきた娘は大きな喜びに変わってゆく。
あたかも娘の存在そのものが、
この国の傷をいやす美しい花であるかのように。
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昨年に観た『あなたになら言える秘密のこと』(イザベル・コイシェ監督)も、ボスニア紛争で性暴力を受けた女性を描いていた。
心と身体に深い傷跡を残すハンナは、快楽も求めず誰とも交わろうとせずただ孤独に生きる。
過去を自分の中に封じ込め、その自分にだけ向き合う日々・・・。

『サラエボの花』のエスマに残されたのは、心と身体への傷跡に加えて「新しい生命」があった。
自分にとって「おぞましいモノ」であったはずの赤ん坊をひと目見てしまうと、エスマはそのいたいけさと美しさに手放すことができなくなる。
子がいる暮らしは、もはやハンナのように自分だけに向き合うことは許されない。
映像は12歳にまで成長した娘サラとエスマの日常を映し出す。
過去をひきずるが故に、時にサラに対してもエスマは暴力的、威圧的になってしまう。

暴力により宿した我が子を愛することができるのかどうか、私にはわからない。

『亀も空を飛ぶ』(バフマン・ゴバディ監督)では、レイプによる子を愛し切れず自分をも許せず、まだ少女のアグリンは死を選んだ。

父はジャヒード(殉教者)と教えられてきたことに疑問を感じるサラは、母に真実を話すよう求める。
投げつけるように告白する母、慟哭に身をよじる娘。

公式サイトの資料によると
【女性による性的暴力は、残念ながら戦争ではいつも起きている。しかし、この紛争では、女性への暴力行為だけではなく敵の民族の子供を産ませることで所属民族までを辱め、後世に影響を残すことが作戦として行われた。】
とある。

勇気と生きていくエネルギーなしに花は咲かない。
真実を受け入れる勇気をもち、生きることには喜びがあふれていると再び気づきだすサラの笑顔はサラエボの花。
産み出した我が子を見たとき心から「美しい」と感じることができたエスマも花。

32歳のヤスミラ・ジュバニッチ監督は「戦争が始まったとき、私は17歳。近隣の女性たちが次々に捕らえられ、レイプされていった。彼女たちは、いまだにトラウマを抱えているはず。憎悪の中で生まれた子供には、どう接しているのだろうか。私自身が出産したとき、この映画を撮ろうと決意した」とインタビューで語っている。

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2007年8月 8日 (水)

『ヒロシマ ナガサキ』と『原爆体験記』

「原爆」というものを明確に意識したのは小学生の時。
児童書などめったに買ってもらえなかったこともあり、家にある図書を読みあさっていた。
その内のひとつが『原爆体験記』(1965年刊行)。モノクロ写真が数ページ、その後に体験記が続く。

多感な時期だっただけに、その恐ろしさは衝撃と言えるほど。
それでも1枚1枚食い入るように写真を見つめ、体験記は漢字だらけをちっとも気にせず一気に読み進んだことを覚えている。

その時から原爆の恐ろしさは、理屈ではなく感覚としてしっかり刻み込まれてはいるつもりではあったけれど、やはり自らがその痛みや恐怖を体験したわけではなく日常の中でその感覚は薄れていたよう。
先日、スティーヴン・オカザキ監督『ヒロシマ ナガサキ』を鑑賞して、そのことをはっきり自覚した。
こんなにも恐ろしいものだった、こんなにも人をどん底に突き落とすものだった・・・。

圧倒的な数の人を尊厳のカケラもない姿に変えて、生を奪う。
人がとうてい耐えることができないくらいに、姿形も生きざまも変えてしまう。
その恐ろしいものが今や世界に広島に投下された原爆40万発分、存在しているという。
こんなものを作り出したのも、使ったのも、まだ作り続けているのも「人」・・・。

『ヒロシマ ナガサキ』は主に14人の方の証言と記録映像と写真が「原爆」の真実をまざまざと伝えてくる。
14人は「人がとうてい耐えることができない」状況を絶え続けている人たち。
ひとつの強い思いは「2度とこんなことがあってはいけない。」

始まったときから終了まで一瞬も目を離すことなく見入っていた。
その間、ずっと涙が落ち続けた。
一人でも多くの人に鑑賞してほしい。
小学校高学年になってでもいれば子どもたちにも見せてやってほしい。
映画の冒頭に、新宿の若者に「1945年8月6日に何があったか?」をインタビューするシーンがある。誰も知らない。(監督談話によると聞いた者、全員が知らなかったとのこと)
この暗澹たる現状は、若者たちだけのせいではないはず。

Gennbaku
画像は『原爆体験記』より
本に掲載された写真と同じものを『ヒロシマナガサキ』でも数枚見た。

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