2012年7月 8日 (日)

4時間の至福

旅芸人の記録ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の訃報が1月に伝わった時は衝撃だった。
死というものは、人を選ばず突然訪れることがある。
そのことはわかっていても、いつもいつも中々受け入れにくい。

日本で公開されたアンゲロプロス作品は、ほとんど観ている。
おかげで「ギリシャ」でイメージされるのは、霧にけむる寒色の情景、あるいは小雨にぬかるむ土道、そしてエレニ・カラインドルーの抒情的な音楽だったりする。

新作を観ることはもはや叶わないものの、必ず行われるであろう「追悼上映」を楽しみにしていた。ところが映画館でもテレビでもちっともその気配がない・・・。

そして半年。大阪での「突然の追悼上映」の案内を見つけた。
何とか時間を調整しての鑑賞は、代表作『旅芸人の記録』

『旅芸人の記録』Wikiより
旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の歴史と政治史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。

夜6時半からほぼ4時間にわたる長編であり、過去に幾度か鑑賞もしているので「眠気が襲うかも?」との予想は全く当たらなかった。
正に至福の4時間。
すっぽりとアンゲロプロス監督の世界にはまり込み、現実世界のことはすべて遠のいた。
感情移入ではなく、「寄り添う」という感じ。
かつて幾度か観たときにそのような感覚はなかったので、自分が年を重ねたことも関係しているのだろう。

アンゲロプロスが作り出す人物、情景、音楽、ストーリー。
そして、歴史とそれらが織りなすハーモニー。
ここに身を置き、心を寄り添わせることの心地よさ。

76歳で逝かなければならなかったアンゲロプロスはさぞ無念であったろうが、改めて心からの感謝を捧げたい。すばらしい作品をありがとう!

余談をひとつ
このポスター、「譲ってほしい!」と映画館でお願いしたけど、「古いもので上映終了すれば返還しなければいけない」と断られた。残念。

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2011年7月14日 (木)

『光のほうへ』

最近観たデンマーク映画『光のほうへ』監督・脚本:トマス・ヴィンターベアは、今のところ私の2011ベスト。
もっともその時の観客は、平日の夜といえども10人にも満たなかったから、一般受けしない作品かもしれない。

原題は「SUBMARINO」
潜水艦という意味、転じて、水に顔をつけられて自白を強要される拷問の名前でもあるとか。
もがいても、もがいても、閉塞から抜け出せない・・・そんな人間たちが織り成す物語ではある。

光のほうへ
主人公のニックとその弟の母は、酒びたりで育児も放棄している。
その環境にあって兄弟は、赤ん坊である弟に愛を注ぐ。
ミルクを与え、洗礼のまね事をして名前もつけてやる。
ところが、世話が行き届かない故だろう、赤ん坊は死んでしまう。

大人となったニックは刑務所から出所したものの、アルコールが手離せない。
弟は妻を事故で失い、幼稚園児の息子を溺愛しているが、麻薬中毒で生活もままならない。

母親の死を契機に兄弟は再会し、遺産で手にしたお金で、弟は息子との生活を立て直そうとするが、その為に始めた“仕事”は・・・。

『光のほうへ』というタイトルがとてもいい。
社会の底辺にいる兄弟や周りの人たちは、せいいっぱい生きても、それは「もがく」に似て、やすらぎや充足感からは遠い。
彼、彼女らに次々起こることは、暗く、悲しく、観ている者の心を刺す。

それでいて、この物語に強く惹きつけられる大きな要因は、ラストで感じさせる希望のひかり。
加えて人物の魅力か。

ニック役の人のまなざしは深く、弟役の表情はどこまでも繊細。
弟の子は媚びないかわいらしさにあふれている。

だけど・・・、こんな見応えのある映画に10人弱とは。
大阪の人たち、どうしちゃったんだろう?

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2010年1月10日 (日)

『カティンの森』

公開を待ち続けたアンジェイ・ワイダ監督『カティンの森』が大阪でも始まった。
ワイダ監督は1950年頃からこのテーマの映画化を考えていたが、当時の冷戦下では「カティンの森事件」の真実に触れることはタブー。
その頃から約60年、事件からは70年近くかかってやっと作り上げた、これはワイダ監督執念の作品となる。

「この映画は、ぜひ封切り日に!」という願いがかない、昨夜シネ・リーブル梅田まで出向いた。
上映開始を待つ間もワクワクと気持ちが高ぶる映画なんて、久しぶり。

画面全体に漂う雲に浮かび上がるタイトルやクレジットから始まり、無言で終わっていくローリングタイトルまで122分間、身じろぎもせず見入った。

まずは80歳を超えても尚「う~ん、さすが」と観客をうならせるアンジェイ・ワイダ監督に敬意を!
どの国の人であっても、戦争の悲惨と悲しみを体験した人に刻み込まれたものは深く、強い。
この世代の人たちによる、文学や映画などを通しての表現活動に残された時間は残念ながら多くはない。
できるだけ多くの作品に接して、少しでも継承していくのが自分の世代の役目と知りつつ、現実は感嘆するだけで終わってしまうけれど・・・。
願わくば、ワイダ監督にもっともっと時間を!
さらに新しい映画作りを、などとは望まない、やすらかに最良の時間をいっぱい過ごしてほしい。
ホントにお疲れさまでした。(と言っても、この映画は2007年作でその後の作品も既にあるらしい)

さて、『カティンの森』の話に戻ろう。
作品は、ワイダ監督自身の両親に捧げられている。
ポーランド将校だった監督の父は、1940年「カティンの森事件」でソ連軍により虐殺された。
母親は、ほとんど生涯の終わりに至るまで、夫の生還を信じ待ち続けたという。

公式サイトで監督は次のように語っている。
「この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な真実である。主人公は、殺された将校たちではない。
男たちの帰還を待つ女たちである。彼女たちは、来る日も来る日も、昼夜を問わず、耐えられようもない不安を経験しながら、待つ。
信じて揺るぎない女性たち、ドアを開けさえすれば、そこには久しく待ち受けた男性(息子、夫、父)が立っているという、確信を抱いた女性たちである。
カティンの悲劇とは今生きている者に関わるものであり、かつ、当時を生きていた者に関わるものなのだ。」

>残酷な真実
監督の語る言葉通り、「残酷な真実」はストーリー展開に伴う主に女たちの言動や表情によって観客に突きつけられ、ごまかしようもなく確かにあったその虐殺をも見せつける。
これほどの大虐殺が闇に葬られ、あるいは真相を捏造されていたことを改めて知らされる。
そして、真実が明らかになった現代でさえ、事件のことを知らずにいる人がたくさんいることを考えさせられる。
この映画をきっかけとして今後「カティンの森事件」がさまざまな媒体によって表現され、若い世代にも知られていくことを期待したい。

>カティンの悲劇とは今生きている者に関わるもの
「歴史認識」をおろそかにしがちな現代の風潮にあって、ワイダ監督の危機感は高い。
その意識が今も尚現役での精力的な活動を支えているのかもしれない。

まったく目をそらさせない展開でありながら、実はちょっと登場人物の関係がわかりにくいところがあった。(ポーランド女性がみなよく似ているように見えてしまうし・・・)
そんな方はぜひパンフレットのご購入を!
同じ思いの人も多いらしく「登場人物相関図」なるものが載っていた。
シナリオも収録されているし、記事も読み応えがあるので500円(だったかな)は高くないと思う。

皆さま、ぜひご観賞を!
カティンの森 

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2010年1月 6日 (水)

雷蔵に終わり、雷蔵に始まる(映画の話)

結局、2009年最終観賞作品は、市川昆監督市川雷蔵主演の『炎上』。
2010年初観賞は、同じく市川昆監督市川雷蔵主演の『破戒』。
梅田ガーデンシネマでは、雷蔵没後(37歳で癌により死去)40年企画「大雷蔵祭」と銘打って12月から1月にかけて一挙50作品を上映している。
これらの作品が作られた時代(50年代から60年代前半)は日本映画全盛期、名監督、名役者が揃っている。
市川雷蔵といえば、「眠狂四郎」のニヒルな着物姿が印象深いが、『炎上』(1958年)は初の現代劇。

「雷蔵人気は根強いとしても、年末(12/27)にこんな暗い映画、観に来る人、あるのかなぁ?」の予想ははずれ、かなりの入り(もっとも劇場は小さい)。
そしてもっと予想を超えたのが雷蔵の魅力。
屈折した感情をもつ見習い僧侶役は、「演じている」とは思えないくらい巧みでぐいぐいと引き込まれる。(原作は三島由紀『金閣寺』)

欲が出て年始にもう1本観たのが『破戒』。
「年始(1/4)からこんな暗い映画、観に来る人、あるのかなぁ?」の予想は、またもやはずれた。
中高年女性が多いが、男性、若い人もいる。
作品は、といえば映像は美しく、カメラワークも目を見張る。
役者は個性的でまさに「映画を堪能」させてくれた。
脇を固める中村鴈治郎、杉村春子、藤村志保・・・といった役者たちは、母が好きだったので小さいときからなじみがあったけれど、今更ながらその存在感に圧倒された。

島崎藤村の『破戒』の原作とは、ストーリが少し違っている。
例えばラスト部分、原作では丑松は「差別のない国へ行く」とアメリカへ旅立つ(差別から逃げる)が、映画では、差別と闘う運動家になるという含みをもたせている。
原作が世に出たのは明治39年(1906年)、そこから映画公開時の昭和37年(1962年)で時代は進み、差別に対する認識も変わってきたということかな。

今年も時間を見つけての映画館通いは続きそう。
目をつけているのは、大阪ではこの9日から公開のアンジェイ・ワイダ監督『カティンの森』。
見損なっているイ・チュンニョル監督『牛の鈴音』。
そして3月上映のフランス映画、ジャン・ピエール・メルヴィル監督『海の沈黙』
とロベール・ブレッソン監督『抵抗 死刑囚の手記より』といったところ、
でももっとどんどん増えていくだろうなぁ・・・。

七草粥
画像は七草粥。
おなかを休める目的もあるというのに、お餅なんか入れちゃだめかも・・・?

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2009年11月27日 (金)

『This is it』を観た

たいしたファンでもないのに、誘われて観た話題の『This is it』。
いやぁ、よくできていることに感心。111分の上映時間中、楽しみっぱなし。
屋内ではなく野外スクリーンであれば、座ってなどおらず歌い踊りだす観客がいっぱいいるのではないだろうか?
まちがいなく、ステージ上のマイケル・ジャクソンは「King of Pop」、偉大なスターだった。
「出演者」がみな超一流だし、音楽ドキュメンタリーとしての構成も絶品。
ステージで駆使されるはずだった各種ビデオも、映画ならではの効果的な演出で迫ってくる。

50歳でここまで「素敵」であることがすばらしいし、オーラを発散するマイケル・ジャクソンと共にステージに立つ若者たちの輝きもこれまたすばらしい。
彼、彼女たちは「マイケルと同じ舞台」を夢見て、厳しいオーディションを勝ち抜いてきた。
亡くなるには早過ぎたし、並ぶ人超える人がすぐに現れるとは思えないけど、とにもかくにもマイケル・ジャクソンは次世代へバトンをつないでいる。

惜しむらくは、やはりメディアを通じて伝えられてきた私生活のスキャンダラスな面。
リズムに乗せて手足の先まで自由に身体を操ることができても、心の制御はままならない。
映画でも幾度も口にする「I lobe you」、確かに心は愛であふれていただろうに、孤独の影がつきまとう・・・。

歌とダンスの世界でまばゆいばかりに輝く姿を(たとえリハーサル映像を通してにしろ)、記憶に刻むことができて良かった。

当初2週間限定上映の予定が、いまだ各地で延長が続いていたり急きょ上映が決まったり、という状況のよう。近くで上映があるなら、ぜひご観賞を!

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2009年11月12日 (木)

『母なる証明』

昨日、ポン・ジュノ監督 『母なる証明』を観た。
それほど多くない入場者のほとんどが女性(私も含めて中高年ばかり)。
これは女性割引のあるレディスデーだからというだけではなく、「殺人事件の容疑者として逮捕された息子(演じるのはウォンビン)を助けるために、母親が懸命に努力する」というあらすじが女性の気持ちに響くためか・・・?
母なる証明  もしそうであれば観賞者たちには裏切られた思いがあったかもしれない。
あらすじからイメージされるような「落涙をこらえ切れない感動作」ではなく、ミステリ仕立てで人の心のひだ深く分け入り暗く重い部分を描き出す作品だった。

冒頭、枯れた草原に一人きりでいるいわゆる「おばさん」風の中年女性(「韓国の母」といわれる大女優キム・ヘジャ)。
彼女が(カメラに目を据え)音楽に合わせ踊り出す。
「なに??? 何が始まる?」
と狐につままれたような感覚が消えない内に、続いて(気弱な私には)正視しづらい映像。
屋内で裁断機を使い乾燥薬草を切り続けている先の女性、道路をはさんだ向かい側を気にして、視線の先は常にそこにある。
「ガシャ」という刃が薬草を切り落とす乾いた音、おろそかになっている手元、少しずつ短くなっていく薬草に彼女は二度三度と刃を下ろしていく・・・。

緊迫した場面でも想像上の怪物がベースなので言わば気楽に観ることのできた前作『グエムル-漢江の怪物』(これでこの監督のファンになった)とは、のっけから趣きが違う。
「母の愛」をテーマにしながら、善男善女は描かれないし美男美女も登場しない。(ウォンビンは美形だけど「かっこいい」役ではない)描写はリアリズム。

殺される女子高校生。逮捕される知恵遅れで記憶にも障がいがある青年。息子の為なら常軌を逸する行動も厭わない母。
そこにからむすべての登場人物は、「端役」など誰もいないと感じられるほど、物語において重要な個性を放ち、またそれにふさわしい者が演じる。
冒頭の枯野を始め、画像に上げた村の墓地など、風景も印象に残る。

サスペンスでありストーリーを書くことははばかれるが、後半の展開は意表をつかれるし、それが冒頭の「なに???」のシーンにもつながっていく・・・。
この作品のもつ凄みは、むしろ女性より男性が引き込まれるのかもしれない。
とはいえ、私はもう今からポン・ジュノ監督の次の作品を楽しみに待っている。

*公式サイトはこちら

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2009年2月 8日 (日)

『懺悔』を観る

「ペレストロイカの象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」と肩書きされた映画が大阪十三「第七藝術劇場」で上映されている。
グルジアのテンギズ・アブラゼ監督による『懺悔』。
1984年に製作され86年にグルジアで公開、その翌年にモスクワで公開。
日本での上映はなかった。
1987年カンヌ国際映画祭審査員特別大賞を受賞している。

かつて市長として権力を振るっていた男ヴァルラムが死に埋葬されるが、その遺体が3度までも掘り起こされるという事件が起きる。
犯人はケテヴァンという女性。彼女の両親は、かつてヴァルラムにより粛清、殺害されていた。
法廷で過去を振り返る形で、「独裁者」(スターリンでもありヒトラーでもあるような・・・)を戯画化したようなヴァルラムとその取り巻きによる無差別な粛清が明らかにされていく。

才能ある独裁者ヴァルラム、息子アベルは父が行った弾圧を「国と時代」の為と受け入れている、事実を知った孫のトルニケはそんな父が許せない・・・。

詩的、幻想的に描きながら真実を照らしていく手法は、印象的で眼と心に食い込み、観応え十分。
鑑賞中ふとギリシャの監督テオ・アンゲロプロスの作品を思い起した。

公式サイトには昨年来日した主演俳優アフタンディル・マハラゼさん(ヴァルラムとその息子アベルの二役)のインタビューもある。

Q:今この時代に公開される意味は?
A:非常に重要だと思う。でも残念なことに、20年目に作られた作品を今観ても、古く感じないというのは、今も昔も状況は変わっていないということでしょう。

法廷でケテヴァンは「私が生きている限り(ヴァルラムを)墓地で眠らせません。」と言い放つ。
「死」はすべてを「浄化」し人々が死んだ者の罪や過ちを忘れ去ることを許すものではなく、死んでも尚負い続けなくてはならないもの、人々が忘れてはならないものは、あると思う。

「第七藝術劇場」に貼られていたポスター、いかにも昔の映画風のところが気に入り(上映終了後にでももらえないか?と)窓口で聞くと、「販売しています」とのこと。
目を引く人気ポスターということなのだろう。
さっそく部屋に飾って喜んでいる。大きな日本語がじゃまなのが残念。
懺悔

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2008年12月 6日 (土)

『青い鳥』

ブログでもエントリした重松清さん著書の『青い鳥』が映画になったことを聞き、さっそく鑑賞した。

監督は中西健二さんという方でこれが初作品だとのこと。
いじめによる自殺未遂があった中学校に臨時教師として赴任してきた吃音の村内先生と、生徒たちとの交流を描く。
村内先生役は阿部寛。
「かなりの吃音で髪が薄くてちょっと貧相なおじさん」を阿部寛がどう演じるのか?も楽しみのひとつだった。

青い鳥
原作では物語の展開に無理がなく、ぐんぐん惹き込まれていく。
そして村内先生は、「大切なこと」をひどくつっかえながらもしゃべる。
今の中学校という現場や「いじめ」の実際を知らない者でも、この本から感じ取れるものは「確かなもの」としての手応えがあった。

残念ながら映画は少し表現不足ではなかったろうか?
長まわしや沈黙が多い。
確かに阿部寛の静かなたたずまいと大きな眼は「何か」を語る存在感はあったけれど、それを補うものが、映像であれ言葉であれもう少し必要ではなかったか?
原作にはない、女性教師の登場や村内先生の屋上での場面などもリアリティを薄くさせている要因だったように思う。

とはいえ「先生、誰かを嫌うこともいじめになるんですか?」に始まる大切な問いには原作通り丁寧に応えているし、阿部寛も期待以上に自然体で好演。
決して好きな俳優というわけではなかったが、ちょっと好きになってしまった。
この映画ではもう少し言葉が欲しいと思ったけれど、個人的には寡黙でやさしい眼をした人に惹かれる。

『青い鳥』公式サイトはこちら

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2008年8月 7日 (木)

『闇の子供たち』を鑑賞する

原作を読んだときは、テーマの重さと描写のリアルさにたじろいだ。
特に児童買春に関わる生々しい描写では吐き気まで起きた。

登場するタイの子ども達は、「客観的な立場で読む」だけでも相当な覚悟を必要とする現実の真っ只中に生きている。
その状況と背景、そして子ども達そのものを映像としてどのように描き出しているのか?
阪本順治監督の映画を観たことがないこともあって、作品イメージが全くつかめないまま映画館へ足を運んだ。

脚本も阪本順治監督。
原作に基づきながらも独特の脚色が加えてある。
特に「闇」を追う日本人新聞記者、南部(映画では江口洋介が演じる)の描き方が大きく異なる。
映画では記者自身を「児童性愛者」の立場とした。
(これは完全なネタ明かしです。まだご覧になっていない方、ゴメンナサイ)
その為に、この映画は原作とはまったくベツモノとなってしまった(ように私は感じた)。

ホモセクシュアルとは異なり、「児童性愛」というのは一方的なもので、児童にとっては人権侵害や虐待となる。
(もっとも私はこの「児童性愛」自体が未だよくわからないし、実際にそんな行為ができる大人が存在していることも信じられずにいる。)

子どもが虐げられるその行為は、言い訳などみじんも許されないだろうに、南部自身の葛藤とその結末が描かれていることが「大人側の言い訳」に感じられてしまう。

原作ではタイの児童売買の実態は「よその国のこと」ではなく、私たち一人ひとりにも関わりのあることだと十分理解できる。
時間も限られた映像という手法において、その脚色は「身近な問題」と位置づける効果をねらったものだろうけれど私には受け入れにくいものだった。

それでも難しいテーマに取り組んだ監督の意気込みは賞賛に値するだろうし、性的虐待など子どもが演じなければいけない場面の演出などもよく配慮がなされていると思う。
「微笑みの国、タイ」という観光地のイメージだけであったものが、この映画によって違う側面を知るという人も多いことだろう。
できるなら映画鑑賞後でも前でも、ぜひ原作も読まれることをお薦めしたい。
但し、原作の(特に前半)赤裸々な描写は読み続けるのがかなり辛い。
(映画でも目をそむけた箇所は数回あった。)

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2008年7月14日 (月)

『靖国 YASUKUNI』を駆け込み鑑賞

うだるような暑さの毎日に少々バテてはいるけれど、仕事はもちろん、やりたいこともあれこれとやっている。
でも、その記録の意味合いもあるブログまではなかなかエネルギーが回らない・・・。
ちょっと間があいちゃった。

久しぶりのエントリは、『靖国 YASUKUNI』 【李 纓(リ ・イン)監督】 のこと。
終了間際に何とか観ることができた。

全国で唯一、右翼の「抗議」を恐れず(いや多分恐れながらも)予定通りの上映を決めた「第七藝術劇場」に敬意を表する意味でも、またテーマが「靖国神社」であることでも観ておきたい作品だった。

映像表現である映画で、どれほどの深さで、あるいはどのような切り口で「靖国神社」に迫っているか?というのが期待どころ。
う~ん、結果は(期待ほどには)「迫っていなかった」というところか・・・。

それにしても「敗戦記念日」の靖国神社はさながら軍国ショー。
神社の境内で、延々と繰り広げられていることに今更ながらあきれる。
我が家も自動的に某神社の氏子となっているが、もしこのような行為が地元の神社で行われるなら即非難(もちろん私だけではなく)になるはず。
靖国ではそれが許可されている、というよりむしろじゃまされないように守られているなんて・・・。

「望まぬ戦いに徴用され、日本国民でもない父親(肉親)を合祀からはずせ」としごく当たり前の要求をしている韓国の李熙子(イ・ヒジャ)さんや台湾のチワス・アリさんたちも登場していた。
それぞれ『あんにょん サヨナラ』、『出草之歌』という優れたドキュメンタリーで、いかに彼女たちにとっても「靖国神社」が理不尽な存在であるかが描かれていた。

内容的には、やはり日本芸術文化振興会による助成金に関する物議や右翼による抗議活動の対象になるようなものではないだろう。
それでもすぐさま上映中止や延期を決めた映画館が多かっただけに、『あんにょん サヨナラ』や『出草之歌』が、そうした騒ぎに巻き込まれることなく上映され、鑑賞の機会を得たことは今更ながらうれしい。

さて、何はともあれタブー視されているかのような「靖国神社」を描いたこの作品は無事公開にこぎつけ、思わぬ宣伝効果もありロングランとなった。
切り口として、刀匠を設定したこともいまひとつ私にはわかりにくかったけれど、また違う表現による作品が続いてくることを期待したい。

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