2007年2月16日 (金)

「延命」で思う・・・『楢山節考』のおりん婆さん

「どのように生きるか」は常に意識としてあり、具体的な日々の営みに反映させていきたいと願っている。
その延長線上に死は確実にある。
まだ少しは先のことだろうと感じているけれど「どのように死んでいくのか」、
それはどれくらい思う通りになるのだろう?
と、朝刊で読んだ「延命中止」関連記事からしばし「死」について考えていた。

親や兄も見送ったし、物語や映画などでは数え切れないくらい死をみてきている。
その中で自分の心を掴んで離さないのが『楢山節考』のおりん婆さん。
(ブログのHNにさせてもらっている)

村の掟に従い、70歳になる前に息子に背負われて登った「姥捨て山」。
おりんは1人、降りしきる雪の中で死を迎える。

「とんでもない掟」、「おりんがかわいそう」、「悲惨な物語」といった評価をよく聞くけれど、私はこのおりんの生き方、死に方に深い憧憬がある。もちろん小説としても、まるで一連の歌物語であるかのような『楢山節考』はとても好き。(木下恵介、今村昌平、両監督の映画も共に良かった。)

村の人は例外なく貧しい。ぎりぎりの生活の中で脈々と命は受け継がれていく。
新しい命が芽生え、老いた命に死が待つ。大自然の営みの中に人の営みがある。
おりんは頭も身体もまだたっしゃだけど、生への未練を見せない。
おりんにとって「死」とは掟に強要されたことではなく、自分で決めたことであり「楢山さま(山の神様)」と同化すること。
凛として生を終えようとするその姿に悲惨さなど、みじんも感じない。

私もできるなら、このおりんのように死んでいきたい。
もちろんそれは「姥捨て山」に行きたいという意味ではない。
自分が大自然の中に生み出された命のひとつに過ぎず、それは限りなく受け継がれていくものだということ、
生きることも死ぬことも誰かに(何かに)強要されたものではなく、自分で選びとったもの、あるいはごく自然な摂理に従ったもの、
それらを心と身体で実感して死を迎えたい。

そして何より、おりんが生に未練を残さなかった理由―「せいいっぱい生きてきた」という感覚を自分のものにしていたい。

身体全部、人としての智恵、それらを存分に使ってきた生活力あふれるおりん。
そうした生き方をしていると、自ずと死の形は決まってくるのだろうか・・・。

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2007年1月25日 (木)

ろうそくは灯っているか?―ブルンジのマギー

年の始めに新聞でいい記事を読んだ。1月8日付け朝日新聞「平和をつくる」シリーズで取り上げられていたアフリカ、ブルンジのマルゲリート・バランキツェさんのこと。

ブルンジは昨年『ホテル・ルワンダ』という映画によって知られるようになったルワンダの南に位置している。
マルゲリート・バランキツェさん(通称マギー)は、親を失った子どもたちを支援するNGO「メゾン・シャローム(平和の家)」の代表。
93年の内戦による惨事をきっかけに、教会の事務員だったマギーは孤児たちの世話を始める。
生活の場の保障に留まらず、成長した子どもたちの働く場(映画館、レストラン、ホテル、農場)や病院も運営する。
子どもたちが必要とするものをまっすぐに追求し実現させてきた愛と信念の人。

ネットで調べるとマギーの人となりとそれを支える精神が鮮やかに浮かび上がるインタビュー記事があった。
国際月刊誌シェア・インターナショナルのもの。
上滑りのない心深くに刻み込まれる言葉に満ちている。

さて、マギーを知ったその日から私の心の呪文は「ろうそくは灯っているか?」になった。

マギーの座右の銘は「暗さを嘆くよりも、ろうそくをともした方がいい」(これはどうやら元はマザーテレサの言葉らしい)。
この言葉通り、マギーは闇にいる子どもたちにろうそくをともし続けている。
それができるのは、マギー自身の心にいつもろうそくがともっているからだろう。
自分の心にともしびがないと、他のたったひとつの小さなろうそくさえともすことはできない。
私にはとてもマギーのようなことはできないけれど、せめて自分の心のろうそくだけは灯し続けたい。それがあれば、いつかどこかで誰かの為にろうそくを灯すことができるかもしれない・・・。
時に、妬みや僻みあるいは絶望といった黒い感情がムクムクを湧きあがってくる。その時につぶやく呪文、「ろうそくは灯っているか?」
負の感情に心を黒く覆われる前に自分でろうそくを灯す。
マギーに出会えた今年からは、ほんの小さなあかりでもいい、いつも心に灯していたい。

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