「延命」で思う・・・『楢山節考』のおりん婆さん
「どのように生きるか」は常に意識としてあり、具体的な日々の営みに反映させていきたいと願っている。
その延長線上に死は確実にある。
まだ少しは先のことだろうと感じているけれど「どのように死んでいくのか」、
それはどれくらい思う通りになるのだろう?
と、朝刊で読んだ「延命中止」関連記事からしばし「死」について考えていた。
親や兄も見送ったし、物語や映画などでは数え切れないくらい死をみてきている。
その中で自分の心を掴んで離さないのが『楢山節考』のおりん婆さん。
(ブログのHNにさせてもらっている)
村の掟に従い、70歳になる前に息子に背負われて登った「姥捨て山」。
おりんは1人、降りしきる雪の中で死を迎える。
「とんでもない掟」、「おりんがかわいそう」、「悲惨な物語」といった評価をよく聞くけれど、私はこのおりんの生き方、死に方に深い憧憬がある。もちろん小説としても、まるで一連の歌物語であるかのような『楢山節考』はとても好き。(木下恵介、今村昌平、両監督の映画も共に良かった。)
村の人は例外なく貧しい。ぎりぎりの生活の中で脈々と命は受け継がれていく。
新しい命が芽生え、老いた命に死が待つ。大自然の営みの中に人の営みがある。
おりんは頭も身体もまだたっしゃだけど、生への未練を見せない。
おりんにとって「死」とは掟に強要されたことではなく、自分で決めたことであり「楢山さま(山の神様)」と同化すること。
凛として生を終えようとするその姿に悲惨さなど、みじんも感じない。
私もできるなら、このおりんのように死んでいきたい。
もちろんそれは「姥捨て山」に行きたいという意味ではない。
自分が大自然の中に生み出された命のひとつに過ぎず、それは限りなく受け継がれていくものだということ、
生きることも死ぬことも誰かに(何かに)強要されたものではなく、自分で選びとったもの、あるいはごく自然な摂理に従ったもの、
それらを心と身体で実感して死を迎えたい。
そして何より、おりんが生に未練を残さなかった理由―「せいいっぱい生きてきた」という感覚を自分のものにしていたい。
身体全部、人としての智恵、それらを存分に使ってきた生活力あふれるおりん。
そうした生き方をしていると、自ずと死の形は決まってくるのだろうか・・・。
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